文房四宝の学習所・研舎を主宰する著者が、
長年の研究を通じて得た「文房四宝こぼれ話」を披露します。
ときには、「文房四宝こぼれ話」の、さらなる「こぼれ話」になることも?
連載をはじめてお読みいただく方は、最初に「前説」をご一読のほど。
文房四宝の学習所・研舎を主宰する著者が、長年の研究を通じて得た「文房四宝こぼれ話」を披露します。ときには、「文房四宝こぼれ話」の、さらなる「こぼれ話」になることも? 連載をはじめてお読みいただく方は、最初に「前説」をご一読のほど。
第9回 和墨事始 その2 次の史書『令義解』、お前もか!?
はてさて、厄介な曇徴さんの記載の次に古い和墨に関する史書の記載は、天長10(833)年に編まれた『令義解』の「中務省・図書寮」にある。
造墨手四人掌造墨。
造墨手四人、墨を造ることを掌る。
曇徴さんと違って、内容的に紛うことはない。宮中の図書寮に「造墨手」という者を4人置き、その仕事は墨を造ること。疑いの余地など皆無の一文なのだけれど、今度は内容にではなく、『令義解』という史書そのものに少々ややこしい事情が伴う。
『令義解』は、簡単に言えば法律の注釈書。お役人が法律を実際に施行するにあたって、その注意点などが書かれている。と、いうことで、『令義解』の内容には、大元の法律書の記述が含まれている。その大元の法律書とは、天平宝字元(757)年の「養老律令」。なので、この「造墨手」の記載は、天平宝字元年にまで遡ると考えられる。考えられる……なんとも不確かな言い回しをわざわざするのは、「養老律令」自体が戦国時代までにほぼ散逸しているからだ。現在、史料として用いられている「養老律令」は、『令義解』や『令集解』などの注釈書などから逆に復元されたものである。
うーむ、何だかややこしい。が、事態はさらにややこしくなる。「養老律令」は、日本最初の法律である大宝元(701)年の「大宝律令」の改訂版だ。「大宝律令」は、中国の真似をしすぎて日本の事情にそぐわない部分が多々あり、発布当初から改定に取り組まれた。そして、出来上がったのが「養老律令」。どの部分をどれだけ改定したのか、今となってはわからないのだが、一般事項についてはそのまま踏襲されたのではないかと言われている。「造墨手」に関する事項は、およそ一般事項に該当するだろう。と、いうことで、「造墨手」の記載は、「大宝律令」まで遡る可能性がある。可能性がある……さらにあやふやなこの表現! 察しの良い読者諸氏はお判りのように、「大宝律令」は、完全に散逸しているので、確認のしようがないのだ。
さて、天長10年『令義解』から「養老律令」まで遡ること76年、「大宝律令」までだと遡ること132年、その差はなかなかに大きい。そして、和墨のことを書こうとする者にとっては、曇徴さん同様に煩わしい。再び言うが、煩わしいので、ちまちま説明するよりも、やっぱり端折ってしまうに及くはない。「造墨手」に関する記載を、慎重を期して『令義解』の天長10年とするのか、間違いなくあったであろう天平宝字元年の「養老律令」とするのか、いや、可能性があるのだから、もっと大胆に大宝元年の「大宝律令」とするのか、和墨の歴史を書こうとする者がどれを選択するかによって、ころころ変わる。事実は1つなのだけれど……。
やっぱりもって、和墨事始は難儀である。

(江戸時代の版本より)
図版出典:早稲田大学図書館 古典籍総合データベース