文房四宝の学習所・研舎を主宰する著者が、
長年の研究を通じて得た「文房四宝こぼれ話」を披露します。
ときには、「文房四宝こぼれ話」の、さらなる「こぼれ話」になることも?
連載をはじめてお読みいただく方は、最初に「前説」をご一読のほど。
文房四宝の学習所・研舎を主宰する著者が、長年の研究を通じて得た「文房四宝こぼれ話」を披露します。ときには、「文房四宝こぼれ話」の、さらなる「こぼれ話」になることも? 連載をはじめてお読みいただく方は、最初に「前説」をご一読のほど。
第5回 巻菱湖④ 掖山の墓石
掖山没後、巻家は残された妻の泉(1842-1917)が掖山の弟子を婿に迎えて継承した。深沢家から入った巻菱潭(1846-1886)の誕生である。その経緯は、よくわからない。菱湖四天王の1人、萩原秋巌(1803-1877)が存命だし、高木の7代目寿穎も居たのだから、彼らの承認なんてことがあったことだろう。あるいは、掖山自身が指名したものか。ちなみに、計算するとこの時の菱潭は、泉より4つほど若い数え24歳である。
寿穎には息子が2人いたことは、以前に触れた。長男の五郎吉が亡くなったことも。その後、次男の五郎八も19歳で亡くなってしまう。巻家の親子も跡取りに苦労したが、高木の家も同じように苦しんだ。結局、寿穎は三女のはん(1852-1924)という娘に婿取りすることで家系を保った。ただし、この婿取りは少々強引なところがあって、近江蒲生郡の西堀家から取った晋平は、すでに勝木という他家へ入ることが決まっていたものを、筋を曲げて高木家へ迎えた。この時、中を取り持つべく奔走したのが、他でもない菱潭だった。
強引にならざるを得ないのは、寿穎の側にのっぴきならない事情があった。寿穎の妻のさと(1820-1883)が長患いしていたし、なにより当の寿穎がこの婿取り後、僅か数カ月で身罷ってしまうのだから。
高木の家系は数え20歳になると代を継承したと考えるようで、寿穎の長男の五郎吉がちょうど20歳で亡くなったことから、彼を8代目と数える。はんの婿となった晋平は、9代目高木五郎兵衛(1854-1899)である。義父同様の毛筆の目利きとして筆屋を営んで行った。
なお、事のついでに、拙稿『筆匠・高木寿穎の一考察』中で、このはんを養女と記したが、どうやら実子である。この場を借りて、訂正する。
菱潭が亡くなったのが明治19(1886)年、41歳のこと。9代目婿取りのために奔走してから、僅か4年後のことである。泉との間には、やはりというべきか、子をなすことはなかった。これまた経緯は不明ながら、巻家は菱潭を最後に廃絶した。
泉はその後30年余り生きて、大正6(1917)年に亡くなった。この間の大正2(1913)年、東京一の筆匠と称えられた筆屋としての高木五郎兵衛が廃業した。9代目も継嗣に恵まれず、近隣の商家から養女を貰い受けたが、婿取りする前の明治32(1899)年に没した。その後は妻のはんが営業を続けていたが、番頭に運転資金を持ち逃げされるような事件があったらしく、突然の廃業に追い込まれたのだ。
今日、天王寺の菱湖の墓域は、菱潭の実家である深沢家が管理している。その経緯もやはりわからないが、筆匠高木の廃業が関係しているのではなかろうか。墓域へ行って拝見すると、菱湖の墓に、菱潭、さらに泉の墓がある。泉の墓には「巻菱潭室泉之墓」と刻まれている。そして、掖山の墓はない。
菱湖親子の墓は元々浅草の海雲寺にあったと述べた。海雲寺は、明治43(1910)年区画整理のために杉並区の成田東へ移転した。ものは試しと足を運んでみると、あった! 無縁仏となった掖山の墓は、墓石の形が珍しいことも手伝って、本堂の脇へ遷されて残されているのだ。「休盧塚」と刻まれたそれは、掖山の戒名が「清嶽休盧居士」というのに基づく。果たして、掖山の墓は、海雲寺にあり続けたのか、はたまた天王寺に移されたものが出戻ったのか、今となってはよくわからない。
「休盧塚」を見ていると、掖山や泉、巻の家や高木の家の人々の織りなした情というものに、想いをはせずにはいられない。
この稿を締めるにあたり、しばし史料を調べ直していて気づいたのだが、通説では掖山の享年は46歳と言われている。しかし、五郎兵衛のご子孫のところに残されている過去帳には「四十三歳」とある。してみると、掖山の事績はすべて3つほど歳を引く必要があり、生年は文政10(1827)年となるのだが……。後考を待つ。
*掲載資料(覚書)は個人蔵