文房四宝こぼれ話 第4回 巻菱湖③ 巻掖山と波の方 文/濱田薫

文房四宝の学習所・研舎を主宰する著者が、
長年の研究を通じて得た「文房四宝こぼれ話」を披露します。
ときには、「文房四宝こぼれ話」の、さらなる「こぼれ話」になることも?
連載をはじめてお読みいただく方は、最初に「前説」をご一読のほど。

文房四宝の学習所・研舎を主宰する著者が、長年の研究を通じて得た「文房四宝こぼれ話」を披露します。ときには、「文房四宝こぼれ話」の、さらなる「こぼれ話」になることも? 連載をはじめてお読みいただく方は、最初に「前説」をご一読のほど。

第4回 巻菱湖③ 巻掖山と波の方

 菱湖の息子、巻掖山は鴎州、柳佐、柳輔、百里、景遠、築州、之記など、号や呼び名がたくさんある。ただでさえ巨大な名声の父親に比べて影が薄いのに、名称をどう記せばいいのかも迷ってしまうのだから、始末に負えない。ネットなどでは鴎州と記されることが多いのだが、高木五郎兵衛の広告などでは掖山と書かれているので、ここではそれを用いている。もっとも、この字も読み辛い。「掖」は「えき」と読むらしいので、「えきざん」と読むこととしている。

 父の菱湖も跡取りに苦労をしたが、病弱であった掖山は尚更だった。早々に子をなすことあきらめたものか、彼は7代目の五郎兵衛、すなわち寿穎の次男坊に目を付けていた節がある。菱湖から掖山が幼少期に授けられていた「書法口伝」という秘伝の手本を、次男坊の五郎八へ授けているのだ。
 しかし、この目論見はうまくいかなかった。文久2(1862)年に寿穎の長男、五郎吉が二女のうめと共に病死してしまう。当時コレラが流行していたようなので、これに罹患したものか。自然、残された次男坊が高木の跡取りとなるので、掖山の望みは水泡に帰した。
 掖山は吉原の遊女を身請けして妻としたことが知られている。それは、この五郎吉没後のことらしい。そして、この身請けは、無論跡取りの誕生を期待してのものだろう。

 五郎兵衛のご子孫の元には、遊女身請けにまつわる史料が残されている。内容は、新吉原江戸町の三州屋ふさ預りの遊女、波の方について。身請けして馴染んでいたものの、病気を隠していたことが判明、償い金として80両を返却、当人身分も戻されるべきところを留め置かれ、その分50両をあらためて贈られた、というものだ。

身請けに関する証文

 この証文の受取人は、「忠七郎殿」となっている。果てさて、忠七郎とは誰なのか? その答えも、残されている史料の中にある。掖山の自用印「百里氏」が捺された「元政上人三社乃書」という軸物には、「蒲原巻村之御氏巻忠七之己」と署名されているのだ。菱湖の義父の名は池田忠七といった。どうやら、彼は自身の子供に義父の名を付けたらしい。そして、掖山の別称の之記は之紀と書かれることもあり、また、之己とも書かれたのだろう。名の多い掖山にまた別の呼び名を増やすことになるが、忠七が忠七郎と記されたとしても、不思議ではないだろう。してみると、やはりこの証文は、掖山宛のものとなり、波の方とはその妻となった女性、のちに泉と名のる人のこと。償い金が必要となるほどの病気とは、おそらく子供を作れない身体のことではないか。ここまで来ると、跡取りを欲していた掖山の一縷の望みも潰えたことがわかってくる。

 この身請けに関する証文は慶応2(1866)年12月のもの。この時、掖山は数え43歳、一方の泉はおそらく25歳だろう。掖山の没年は明治2(1869)年9月25日。うら若い妻の泉と共に紡いだ時間は、僅かに4年に満たないことになる。

*掲載資料は個人蔵

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