文房四宝の学習所・研舎を主宰する著者が、
長年の研究を通じて得た「文房四宝こぼれ話」を披露します。
ときには、「文房四宝こぼれ話」の、さらなる「こぼれ話」になることも?
連載をはじめてお読みいただく方は、最初に「前説」をご一読のほど。
文房四宝の学習所・研舎を主宰する著者が、長年の研究を通じて得た「文房四宝こぼれ話」を披露します。ときには、「文房四宝こぼれ話」の、さらなる「こぼれ話」になることも? 連載をはじめてお読みいただく方は、最初に「前説」をご一読のほど。
第3回 巻菱湖② 菱湖の墓と子供たち
菱湖が江戸に上った時、お店の2階に仮住まいさせた高木五郎兵衛が何代目だったか、正確に伝わっていない。五郎兵衛の系図を繙くと、どうも4代目あたりの事だったのだろう。
私には『筆匠・高木寿穎の一考察』という拙稿があるのだが、どうした訳か、その中で五郎兵衛の4代目と5代目の没年を取り違っていた。事のついでに、この場を借りて訂正しておこう。
4代目・高木五郎兵衛の 文化2(1805)年没 享年34歳
5代目・高木五郎兵衛の 文政元(1818)年没 享年77歳
計算すると4代目は菱湖より5つほど年長で、弟のように可愛がったのではなかろうか。しかし、この4代目、34歳という若さで亡くなる。菱湖が江戸軽小橋付近(現・中央区港町)に書塾・蕭遠堂を建てたと言われるのが文化4(1807)年、4代目が亡くなって2年後のことである。
4代目没後も菱湖と高木家との付き合いは続いたようで、菱湖の息子の掖山(1824-1869)の消息によると、6代目の五郎兵衛である紹甫(1779-1848)とも親しかったと記されている。当の掖山は、7代目の五郎兵衛、後に寿穎(1814-1883)という号で知られるその人と親しかった。
今日、菱湖の墓は谷中の天王寺にある。もともとは浅草にあった海雲寺に葬られたはずなのだが、後にこの地に移された。そして、掖山没後の明治7(1874)年に拡張して建て直された。五郎兵衛のご子孫の元には、この時に墓を再建した石彫職人の廣群鶴等からの覚書が残されている。群鶴は、公儀御用を務めた名工で、この覚書には墓石などのイラストとともに費用なども書かれていて、なかなかに味がある。当時は7代目の寿穎の頃、おそらく費用負担は彼が賄ったのだろう。
もう1つ、興味深いのは、この覚書の巻末に添付されているのが、菱湖の親族の戒名と没年。途中破れて欠損しているが、いろいろなことが判明する。まずは、成人した掖山以外にも、菱湖には子供がいたことがわかる。
文政八乙酉(1825)年十二月十七日 巻右内伜 未了禅童子
文政五壬午(1822)年十二月二日 同人娘 智清禅童女
また、それより先に妻の実家竹原家の親族からか、養子を貰っていたらしい。
文政四巳(1821)年八月十日 遠州屋より〇〇 竹原氏 桂巌常光信士
菱湖は、跡取りを欲していたのだろうが、いずれも夭折。結局文政7(1824)年生まれの掖山だけが成人したが、これまた極めて病弱だった。
*掲載資料はすべて個人蔵