文房四宝こぼれ話 第12回 松井道珍(古梅園初代)と十市遠忠 その1 文/濱田薫

文房四宝の学習所・研舎を主宰する著者が、
長年の研究を通じて得た「文房四宝こぼれ話」を披露します。
ときには、「文房四宝こぼれ話」の、さらなる「こぼれ話」になることも?
連載をはじめてお読みいただく方は、最初に「前説」をご一読のほど。

文房四宝の学習所・研舎を主宰する著者が、長年の研究を通じて得た「文房四宝こぼれ話」を披露します。ときには、「文房四宝こぼれ話」の、さらなる「こぼれ話」になることも? 連載をはじめてお読みいただく方は、最初に「前説」をご一読のほど。

第12回 松井道珍(古梅園初代)と十市遠忠 その1

 筆屋の高木寿頴の店舗は、通旅籠町一番の角地にあった。その隣はしばしば浮世絵などにも描かれた有名な太物問屋の大丸が軒を連ね、さらに道を越えて進むとやがて奈良の墨匠・古梅園の東京支店に辿り着いた。同じ界隈で有名な文房四宝を扱う両店だったのだから、やはりそれなりの交流というのはあったことだろう。
 という事で、高木寿頴が残した資料群の中には、古梅園の10代目松井元長(1828-1865)が記した「墨製由緒書」というものが残されている。

 古梅園の初代は、松井道珍(1528-1590?)と言う。「墨製由緒書」の中には、こんな風に書かれている。

墨製始祖
楠正成八代後胤松井土佐守義忠三男松井又三郎ト申候。大和国十市城之兵部少輔中原朝臣遠忠仕天正年中遠忠卒去後南都江移住仕……

 道珍はもともと又三郎という名だった。父親かあるいは彼自身かが楠木正成の8代後裔ということらしい。もっとも、明治の頃、天皇家に功績のあった遺臣たちの末裔を探すことになり、正成に関してはその末裔を称するものは数多いたものの、間違いなく正統だという家は結局特定できなかったのだから、道珍もその例に漏れないだろう。

 2009年から2011年にかけて「奈良古梅園所蔵資料の目録化と造墨事業をめぐる東アジア文化交流の研究」という研究が文科省の科研費を受けて行われた。古梅園の蔵に保存されてきた史料を詳細に調べた研究で、その家系に関する史料なども少なからず含まれていた。中には、道珍こと又三郎が、元々は植田という姓であったことなども記述されている。松井という姓は、後の4代目の時に、母方のものを用いるようになったのだそうだ。そうなると、道珍の元の名は植田又三郎と言うことになる。

 道珍こと植田又三郎に関して、元長の「墨製由緒書」にも、蔵出しの様々な資料でも必ず書かれているのが、十市遠忠(とおいち・とうただ 1497-1545)の家臣であったことである。
 十市氏は、本姓を中原と言い、今の奈良県橿原市あたりの十市郷を拠点とした大和国衆で、筒井氏、越智氏、箸尾氏とともに大和四家の一に数えられる有力な豪族だった。遠忠は、十市氏の最大勢力を築く一方で、和歌に熱心に取り組んだ文武両道の名将、官位も従五位下兵部少輔を授けられていた。現在でも遠忠が詠んだ「十市遠忠三十六番自歌合」などの著作や、先人が詠んだ歌集を遠忠が書き写した写本が残されており、特に先人の歌集の写本は原典が消失しているため、遠忠が書き写していなければ今日では存在すら分からなかった稀書が多い。和歌の文化に対する彼の功績は大したものなのだ。
 遠忠は当時の歌道の権威であった三條西実隆へ自ら読んだ歌合などを送り、添削を請うている。そして、その謝礼として油煙墨をまとめて贈ったりしているのだから、あながち彼も墨と無関係とは言えなさそうだ。ひょっとすると南都の油煙墨の産地は、遠忠の支配地域だったのかもしれない。

伝十市遠忠歌色紙

*掲載資料は個人蔵

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