文房四宝こぼれ話 第1回 公儀御用の御筆師 文/濱田薫

文房四宝の学習所・研舎を主宰する著者が、
長年の研究を通じて得た「文房四宝こぼれ話」を披露します。
ときには、「文房四宝こぼれ話」の、さらなる「こぼれ話」になることも?
連載をはじめてお読みいただく方は、最初に「前説」をご一読のほど。

文房四宝の学習所・研舎を主宰する著者が、長年の研究を通じて得た「文房四宝こぼれ話」を披露します。ときには、「文房四宝こぼれ話」の、さらなる「こぼれ話」になることも? 連載をはじめてお読みいただく方は、最初に「前説」をご一読のほど。

第1回 公儀御用の御筆師

 公儀御用の御筆師ふでし室町むろまち三丁目の「小法師こぼうし甲斐かい」は、日本橋一丁目の福用ふくもち常盤橋ときわばし速水はやみと相並んで繁昌しましたが、わけても小法師甲斐は室町の五分の一を持っているという家主で、世間体だけはともかくも、大層な勢いでした。
 江戸中に筆屋の数は何百軒あったかわかりませんが、鉛筆も万年筆も無い世の中ですから、これが相当以上にやって行けたわけです。そのうち公儀御用というのが七軒、墨屋が三軒、格式のやかましかった時代で、大抵出羽でわとか但馬たじまとか豊後ぶんごとか、国名くになを許されて、暖簾のれん名にしております。

 こんな風に始まるのが、テレビでもお馴染みの『銭形平次捕物控』の「百物語」。殺人事件の現場が小法師甲斐という筆屋なのだが、事件の詳細は青空文庫などでお読み頂くとして、私の興味は筆屋の方。作者の野村胡堂(1882-1963)が、何に基づいてこの文を書いたものか、江戸学に疎い私には見当がつかない。

 元禄3(1690)年の『江戸惣鹿子名所大全』には、

・日本橋南一丁目 福用理兵衛
・常盤橋前 速水祐仁
・室町二丁目 小法師甲斐
・石町二丁目通 杉村出羽
・福岡相模
・石町三丁目十間棚 安藤数馬
・本町 福永豊後

の7つの筆屋が掲載されていて、さしずめこれが公儀御用なのだろう。所在地に若干の違いがあるが、胡堂の語った3店は頭に列記されているし、『武鑑』のコレクターであった「あらえびす」先生、やはりいい加減なことは書かれていない。

銭形平次の生みの親、野村胡堂は、
「あらえびす」の筆名で音楽評論も執筆した

図版出典:野村胡堂・あらえびす記念館ホームページ

 「小法師」はその名のりから言って、京都の宮中御用を賜っていた筆屋だろう。江戸は「甲斐」だが、京都には「河内」や「岩見」、「山城」などと名のる筆屋があった。「福用」は、大阪に「出雲」を名のる筆屋があり、江戸の「理兵衛」と無関係ではないだろう。筆結という特殊技能を、一族縁者で伝えて行くのは普通だろうし、需要の大きな地域へ支店だの暖簾分けだのしていくのも、商売の常套手段だ。してみると、京・大坂から新興の江戸表へ出張ったと考えるのが妥当か……。
 幕末から明治にかけて、東都一の筆匠であった高木寿穎は、「東京筆ノ起源」として、元和年中に京都の筆工の「寿庵」と言う者が江戸に来て製筆を教え、その門人が多かったことを述べている。そして、「速水祐仁、安藤数馬」は「ソノ他支流」なのだそうだ。また、それらの製筆が「古法ニシテ巻心筆ノ製ナリ」とある。そう胡堂が書いた筆屋は江戸のはじめ頃なので、今の毛筆とは異なり、真ん中に紙等の紙縒りが入った巻き芯筆しか作り得なかった。

 公儀御用の筆屋だったのだから、製造した筆も少ない数ではなかっただろう。しかし、今日それらを目にすることはほとんどない。巻き芯筆の古いものは、およそ毛の部分を蟲喰いにあっていて、紙縒り部分しか残っていない。一見すると、パステル画などで使うフェルトのペンみたいに見える。まぁ、そんな状態の江戸の巻き芯筆の残骸ですら、滅多にお目に掛かれないのが現状だ。あるいは、徳川家の遺品の中に、ひょっこり登場するやも知れいないなどと思っているのだが、残念ながら未だにそんな機会に恵まれていない。
 なお、巻き芯筆の製法は、唯一近江の攀桂堂・雲平筆が伝承している。一子相伝で伝えられてきたその製法は、巻き芯の製法でも優れたものであったが故に、唯一遺されることになったのだろう。

江戸時代のものかもしれない筆管が骨角牙器の小筆
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