文房四宝の学習所・研舎を主宰する著者が、
長年の研究を通じて得た「文房四宝こぼれ話」を披露します。
ときには、「文房四宝こぼれ話」の、さらなる「こぼれ話」になることも?
連載をはじめてお読みいただく方は、最初に「前説」をご一読のほど。
文房四宝の学習所・研舎を主宰する著者が、長年の研究を通じて得た「文房四宝こぼれ話」を披露します。ときには、「文房四宝こぼれ話」の、さらなる「こぼれ話」になることも? 連載をはじめてお読みいただく方は、最初に「前説」をご一読のほど。
第10回 二諦坊──南都油煙起源考 その1
奈良の墨作りは、たいそう歴史が古い。平城京の都が置かれたころには、始まっていたらしいのだから。ただし、それが現在の奈良墨へ連綿と続いたわけではなさそうだ。何故なら、現在の奈良墨は、油煙墨が主力だからである。中国でもそうだが、墨は松煙墨から始まった。松煙墨は松の木そのものを燃やして煤を採る。宋時代前後に森林資源の減少が社会問題化するなかで、新たに発明されたのが、木材そのものではなくその種子などから油を搾って燃やし煤を採る、油煙墨の製法。時代が進むにつれて、墨は松煙墨から油煙墨へと主軸を切り替えていった。
平城京の昔なら、明らかに松煙墨を作っていたが、史書に登場する奈良の墨、すなわち南都の墨と言えば油煙墨。しばしば「南都油煙墨」と呼ばれるが、史書の多くは単に「油煙」と書かれ、「油煙」といえば奈良の墨を指したらしい。
事の始まりが難儀なのは、先述の例に漏れない。南都の油煙墨もその始まりは、明確にはわからない。奈良の墨匠の間には、弘法大師空海が教えたという俗説が根強く残っているが、さすがにそれは時代が合わないだろう。と、思っていると……。
最初に南都油煙墨を作ったのは、二諦坊(にたいぼう)という興福寺の塔頭の1つだったといわれ、江戸時代奈良奉行所与力を務めた玉井定時(1646-1720)とその子孫が綴った『庁中漫録』の中には、こんな話が述べられている。
旧記に云う、奈良煙のはじまりは、延暦二十又二(803)年、海李が入唐し三年を経て、平城帝の大同元(806)年に帰朝、その後、海李は春日社に詣で、又山階寺に到り、二諦坊に宿った、夕べになって海李は二諦坊へ教えるに、墨法をもって一飯の助けとした、所謂、松煙である。この松煙の法は、海李が漢朝に於いて習った製法であった。(奈良史料叢書3『庁中漫録』 ※訳及び西暦追記は筆者)
唐に渡ったことのある海李という僧侶が、一宿一飯のお礼に二諦坊へ中国式の松煙墨の製法を教えたという。入唐僧の海李、記述通りなら空海に1年先んじて渡唐し、同じ船で帰ってきたことになるのだが、少なくとも行きの遣唐船は存在しない。どうも弘法大師のイメージがぷんぷんし、それにすり替わるのは必然とさえ思える。事実はひとまず置いておくとして、それでも教えられたのは松煙墨に留まっている。ところが、この「旧記」、続きがあってさらに巧妙な上に奇天烈なのである。
毎夜、仏前の灯籠に火をつける、時に燃やした油の煙が灯籠の上に集まり固まっていた、坊は油の煙で墨をつくれば松煙を超えるのではと思った、その時忽然とムカデが自ずから油煙の内に落ちた、坊は益々思い、墨法の瑞祥だと考えた。翌日また墨工に命じて油煙を取り、これを丸めて製墨すると松煙製を超えた、それ故松煙の法を捨てたのだ、油煙をもって初めて墨を作り世に行われるようになった。
うーむ、こうなると、奈良の油煙墨は平安時代に作られたかもしれない……本場の中国よりも早くに……弘法大師の時代に重なっちまうね……。
今でも奈良の老舗の墨匠には、鋳物でできた二諦坊の墨型というのが残されている。一面に龍のような、あるいは虫のような図がしるされ、もう一面には「李家烟」という字がしるされている。「旧記」の続きはこの墨型の話におよび、この図案も二諦坊と墨工が考えたもので、件の瑞祥であるムカデがモチーフらしい。また、「李家烟」については、二諦坊の墨法を継いだ弟子が李の下で生まれたので、元は「奈良煙」と書かれていたものを「李家烟」へと変更したのだという。
さすがにここまでくると、取って付けたように出来過ぎ。少なくとも、まるごと信じて良いような話ではないだろう。奈良には今でも弘法大師が製墨法を伝えたという俗説があると先述したが、天井からムカデが灯明の中に落ちるのを見て油煙の製法を思いついたという伝承もあり、それぞれ別々に伝えられている。そうすると、この「旧記」、それらの話をうまく1つにまとめた感が否めない。
