「文房四宝こぼれ話」のこぼれ話 第7回 東海寺と2つの利休碑 その2 利休居士追遠塔 文/濱田薫

文房四宝の学習所・研舎を主宰する著者が、
長年の研究を通じて得た「文房四宝こぼれ話」を披露します。
ときには、「文房四宝こぼれ話」の、さらなる「こぼれ話」になることも?
連載をはじめてお読みいただく方は、最初に「前説」をご一読のほど。

文房四宝の学習所・研舎を主宰する著者が、長年の研究を通じて得た「文房四宝こぼれ話」を披露します。ときには、「文房四宝こぼれ話」の、さらなる「こぼれ話」になることも? 連載をはじめてお読みいただく方は、最初に「前説」をご一読のほど。

第7回 東海寺と2つの利休碑 その2 利休居士追遠塔

 元々の東海寺は廃寺になっているのだが、残った塔頭の1つ玄性院がその名称を引き継ぎ、現在に至っている。そして、地図で見るとちょうどJRの東海道本線と新幹線や横須賀線が交わる三角地に、東海寺の墓域である大山墓地も残っている。いや、残っているどころか、ここには沢庵和尚の墓があり、さらに賀茂真淵、服部南郭、井上勝、渋川春海、果ては島倉千代子の墓なんてものまであるので、ちょとした観光スポットになっている。
 そんな大山墓地の中には、裏千家の6代目・六閑斎泰叟宗室(1694-1726)の墓もある。多彩な才能と卓越した美意識を持っていたという彼は、33歳の若さで亡くなったのだが、彼がこの地に眠っていることでも、東海寺と千家茶道との繋がりが強かったことがうかがい知れる。大きな墓石が建ち並ぶ大山墓域の中で、六閑斎の墓石は質素ながら献花が絶えることなく、8月に六閑斎忌という追善の法要茶会が執り行われているそうだ。

沢庵和尚の墓に続く階段の入り口
六閑斎の墓には献花が絶えない

 さて、汗を拭き拭き清光院から大山墓域へ私が足を延ばした理由は、六閑斎の墓もさることながら、もう1つの利休の碑があると知ったから。果たして、「石浮図」碑を調べろと頼まれた以上、それと関りがあるのかどうかは気になるところ。その碑を「利休居士追遠塔」と言う。

利休居士追遠塔

 お目当ての碑は、大山墓域へ入ってすぐに登場する。なにせ沢庵和尚の墓の横、むしろその看板がわりに建っているのかと疑うような場所にある。ただし、そこは無縁となった墓石をまとめて山積みにした所なので、目立つとは言え扱いが良いってことでもないらしい。そして、立派な大石に強い筆致で刻まれた「利休居士追遠塔」の字は、「石浮図」より意味からいって大層判り易いし、建っている場所から考えても「石浮図」より遥かに多くの人々の眼に触れていることだろう。ところがである。この碑、建碑の経緯やら建立者などの事柄になると、どうも書かれたものを目にしない。その点、何とも「石浮図」とは真逆な感じである。
 碑背を見ようと裏に回るものの、障害物がありすぎて狭い上に暗く、藪蚊が群れ飛んでいる。どうにかこうにか目を凝らすと、どうも全面に文字が刻まれているようなのだが、判然としない。一計を案じ、スマホのカメラでバシャバシャと、めくらめっぽう写真を撮り、帰宅後パソコンで画像処理をしてみることに。で、所々剥落したりして判読できないものもあるが、次のように読めた。

夫従事於茶者遠自利休居士始也猶竟陵氏於唐矣盖居士勝国之臣以茶近昵以天正十九/年辛卯二月廿八日卒也享年七十雖先有一二嚆矢于斯者然體裁不具不可得而従於是居/士抜華集成而為之則好古不固鋳陶錯用事則體質尚文簡便易就以故自王侯大夫之/士庶方外之徒莫不翕然遊藝於斯者豈不盛乎居士嗣少庵其子宗旦疊興世済其美加遭大/緑之化茶□□□今世以為□矣正旦之門者既居多然特宗徧涵泳有年克遡其流業成将/授以不審庵人□今猶蔵焉徧之弟子宗伯伯之子松恕不墜家聲深聴松者遊於恕下始五十/年宗子一□□七十餘偶感自来之久先于居士二百之忌辰之七年今玆天明癸卯六月将□/発遂請東海禅山林聊修斎會且建塔擬以報祖恩之萬一使余為之銘銘日茶時義遠矣于玆上/□□□□□□□日千氏十為先緬迪竟陵轍傍入趙州禅既荷創功久遂上萬松巓安之以追遠/□□□□□□□□天明三癸卯六月浄□杜多耆山誌 東都 河保壽書 石工中門

 碑を覆うだけのことはある長文だが、そのほとんどは千家茶道の継承を述べたもの。千利休(1522-1591)から始まった茶の法嗣は、子の少庵(1546-1614)、孫の宗旦(1578-1658)、次いで山田宗徧(1627-1708)、さらに江戸京橋三十間堀の材木商であった岡村宗伯(1673-1734)、子の宗恕(1701-1766)へと継承されたことが記されている。してみると、これは宗徧流の分派、時習軒のものだとお里が知れる。建立者はどうやら宗恕の高弟であった深澤聴松という人物。利休没後200年より7年ほど前の天明3(1783)年、法要とともに建碑を行ったらしい。撰文は杜多耆山、書は河原保寿と、当時それなりに名を知られた人々が携っているようだ。
 宗徧流は新興都市であった江戸にいち早く進出、豪商などの間へ教えを広めていた。不白が来る前は、江戸の千家と言えば宗徧流を指すほどだったという。それゆえ、分派の時習軒派などもできたのだ。
 この碑の建立は、川上不白の建てた「石浮図」碑から遅れること16年ほど。不白による江戸千家の勃興と「石浮図」碑の建立、それに対抗する意味でこの碑は建てられたのではなかろうか。
 どうも、六閑斎墓の縁から始まる東海寺の利休にまつわる2つの碑、「石浮図」と「追遠塔」は、新興の大都市江戸をめぐる千家茶道の普及の熱い熱い攻防の事跡を、偲ばせるのではなかろうか。

 ちなみに、宗徧流時習軒は和菓子の老舗・榮太樓の社長が世襲している。果たして、この碑の存在を知っているのかどうか? また、「石浮図」碑と同様、建立時には拓が採られたらしく、早稲田大学の図書館に「利休居士追遠塔銘并序(利休追遠塔銘)」という史料が保存されている。

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