木雞室名品《游墨春秋》 第20回 礼器碑 落ち穂拾い記② 金正喜題簽本

礼器碑(れいきひ)
156年(後漢・永寿2年)

 30年前頃から中国の北京でも欧米のオークションに倣って、書画や古書などの売り立てが行われるようになった。当時は、中国国内の方よりも、外国人向けのように感じていた。こうしたオークションで購入された古書等を日本でも販売する方もあらわれた。
 95年頃か、関西で偶然に旧拓の『礼器碑』に出くわした。楠木の表紙、擦拓の精本であり、碑陰、両側の四面が一帖に仕立てられ、装丁・書品・保存状態ともに佳い折帖であるが、旧蔵者の蔵印のみで、題記は無い。碑側はやや拓調が劣るが、四面の拓調は、ほぼ同系で美事であった。

碑陽
(巻頭)
碑陽
碑側

3点とも、95年頃、関西で入手した旧拓本より

 前回のは碑文が不全であり、こちらは完全であった。しかし丁寧に見ていくと巻頭に近い部分で、20字ほどの拓紙の色が微妙に異なるのに気がついた。全体の拓調と異なり、多分何らかの事情で補われたのであろう。また巻頭の碑文の1行目の僅かに欠けた6字部分の拓紙の右端が別紙で補われ、丁寧に修理されていた。碑文は、ほぼ完全であり、旧拓であるのでどうしてもほしくなり、手を出した。以後、『礼器碑』を比較、学ぶ上での対照本としてよく活用している。
 その数年後、東京の古典会の売り立てに、不思議な『礼器碑』が出品された(第18回に掲載、下の図版も参照)。毎頁の上端に「寶」の朱文印が捺され、布を巻いた厚紙の表紙の題簽には、隷書で「礼器碑 御賜」あり、見返し右上端にも「御賜」とあった。

布を巻いた厚紙の表紙
(金正喜題簽本)
見返し右上端の「御賜」

 本文の巻頭は、やや汚れ、皺があるが拓調は、実に丁寧で、墨の軽い擦拓であり、字画が鮮明に拓出されていた。しかし碑石の破損部分が白く拓出されている所が、やや薄い墨で補墨されていた。また文字の右上に淡い色の彩墨で釈字が書き込まれていた。碑陽のみの一帖であり、巻末に尹師國なる人物の手になる碑の釈文が書かれていた。「廟」字の「月」部分の残存状況から旧拓であり、拓本の周囲に当てられている用紙が、中国紙ではなく、朝鮮の紙のようであった。装丁も少し異なっていた。珍しい拓であり、挑戦したが無理であった。

巻頭
「廟」字

 翌年、関西の書店の古書目録にこの『礼器碑』が売り出されており、急いで電話して入手出来た。仔細に調べると、まさしく朝鮮李朝時代に装丁された『礼器碑』の旧拓本であった。装丁の紙が、朝鮮紙であるが、曲阜の孔廟にある『礼器碑』の原刻旧拓本が用いられている。「申櫶私印」(白文印)、「臣申観浩」(朱文印)、また巻末の尹師國の釈文の年紀から、李朝の1806年(嘉慶11年)以前の拓であることを示している。この『礼器碑』は乾隆から嘉慶年間にかけて、清国からもたらされた拓を基に制作された碑帖と推測した。


「申櫶私印」と「臣申観浩」
巻末の尹師國の釈文

 また題簽や「御賜」の毛筆の書が、美事であり、特に「御賜」の筆勢が雄渾であり、以前に目にした李朝の書聖・金正喜(1786〜1856、阮堂・秋史などと号す)を彷彿とさせるように強く感じられた。この李朝装の『礼器碑』は、前の2件の『礼器碑』と同じ頃の旧拓精本であるが、全体に文字部分に係らないように、碑石の石花(破損)に加えられた填墨が、大変惜しく感じられた。
 その後も題簽と「御賜」の書者が気になり、朝鮮と清朝の学術交流を古くから研究されていた藤塚鄰先生の著作などを見て、金正喜と翁方綱らの交流を知り、あれこれ思案したり、朝鮮美術の専家等に問うも不明であった。ある時、古書店で来日されていた韓国の書道雑誌の編集者と面識を得た。以後の交流の折に、手紙でこの筆者の問題をコピー資料を同封して尋ねたところ、当地の研究者の皆さんが、金正喜の書で間違いないとの返信を見て、頭の隅に引っかかっていたものがとれて、ほっとした。

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