生誕100年 敦朴の書 大野篁軒展
会期 2026年7月22日~26日
会場 セントラルミュージアム銀座

会場に一歩足を踏み入れると、そこには喧騒に溢れ返る現代社会とは隔絶された、静謐な墨の世界が広がっていた。ここは生誕100年、没後20年を数える大野篁軒の遺墨展会場だ。
入って直ぐに目についたのは、「雲路在虚空」の寒山句。大野は数多くの摩崖刻の中でも、素朴な佇まいの古隷「開通褒斜道刻石」などがお気に入りで、臨書の折帖も別途出陳されているほどだ。この作品は余韻を残す伸びやかな筆さばきの古隷である。紙面上部に渡された五文字が、文字中の余白の取り方と相まって、観るものに句の通りの独特な浮遊感、ひいては精神世界を感じさせる見事な構成となっている。

82×228
隷書の作品は、ほかにも数多くみられた。寒山と同じように好んで作品にした陶淵明の詩の一つは、縦横2.2メートルほどの大作で会場中央に据えられている。こちらも鍛錬された筆線による魅力あふれる作品だ。例えば潤筆の文字はやや凝縮させ、一方で渇筆の文字は気持ち大ぶりにするなど、紙面構成に細やかな配慮をしながらも、それを感じさせないほど悠然と書き進めているのが印象深い。雄渾の書とでもいうのだろうか。後に篤実、温厚、古武士といった形容詞が当てられた大野らしい作品だ。

225×220
もちろん、会場には師の近藤秋篁仕込みと思われる自然体で記された多くの行草作品や凛とした楷書作品も見られた。隷書作品の落款などさりげなく書かれた行草の文字にも一朝一夕には成せない品格が漂っていた。その会場内で目についたものの一つが扇だった。門人によると、時間があると扇に詩歌を記して贈り物にしたり、弟子へのお年玉にしたり、さらに部屋に飾ったり、その数は数えきれないほどだったという。今回展でも禅語をはじめ、随所に様々な扇面が飾られ、書を心から愉しんでいた故人の一面が垣間見えた気がする。

若き日の大野少年はもちろん書には夢中で、行動力も人一倍あったようだ。1926(大正15)年、埼玉飯能の旧家で生まれた大野は、まずは素養としての書に親しんだ。やがて戦時中の厳しい軍国教育の真っただ中にもかかわらず、14歳で吉田苞竹創刊の月刊誌「書壇」に出合ってその虜となり、17歳で書壇院展に初出品を果たしている。そして1945(昭和20)年の10月には、終戦を待っていたかのように、苞竹の高弟である近藤秋篁を品川に訪ね、入門を許された。時に19歳。
大野は、近藤の指導の下、楷書、行草の鍛錬を重ね、奇をてらわない自然体の美しい楷書や行草作品を次々に生み出す。日展、毎日書道展など戦後書壇にも華々しくデビューした。そして昭和30年前後、木簡を臨書し始めてから舵取の方向が変わっていく。曰く「現代書には様々のジャンルがあるが、自分は漢隷の探求に答えを求めたい」。古隷への傾倒がこうして始まった。
このあたり、近藤の書友で、隷書にも名を遺す松井如流に少なからず影響を受けたのかもしれない。しかし、大野の古隷は沈深厚重、筆意のこもった空間演出により、独自の世界感を醸し出すようになり、観るものを惹きつける魅力が育まれていったのではないだろうか。

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近藤のもとで、大野はまたその人間性も磨かれたことは間違いない。近藤は松井、山下涯石と並び、苞竹門の三羽烏と呼ばれた傑物だった。戦時中の苞竹急逝後、物のない辛苦の時代、書壇院、吉田家を支え、戦後の混乱期を乗り越えて院を隆盛に導いていった。戦後の書道界は自由社会の到来を機に、新しい価値観を求めて離合集散を重ねる時代を迎えていた。しかし、近藤は苞竹、書壇院一途で書道人生を全うする。
その近藤に心酔した大野も師に習い、書壇院、毎日書道展への貢献だけでなく、地方での書の普及、発展にも尽くした。地元で東香会を創設し、飯能で個展も開催。さらに1976(昭和51)年には社中の垣根を越えた「埼玉書道30人展」を立ち上げた。こうして汗をかく一方、書壇の地位には恋々としなかった。門人、地域に慕われる存在だった所以である。

「まことがあり、かざりけがない」。そうした人となり、魅力あふれる書風から、柳澤朱篁ら門弟は、後漢書から採ったという「敦朴(とんぼく)の書」と敬慕するようになった。移り変わりの極めて速いこの時世、時にこうした敦朴の書に触れて一時を過ごしたいと思うのは私一人だろうか。
(書道ジャーナリスト 西村修一)
大野篁軒(おおの・こうけん)
1926年 埼玉県東吾野村(現飯能市)生まれ
1945年 近藤秋篁に師事
1953年 書道研究東香会創設
1995年 書壇院理事長
1999年 毎日書道会理事
2005年 第57回毎日書道展文部科学大臣賞
2006年 逝去

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