「おバカな質問」にガッツリ答えます! 文/財前 謙 vol.18 いろいろある蘭亭序、どれがホンモノ?

疑問を持ちつつ、なんとなくそのままにしていることってありませんか?
游墨舎スタッフが耳にした素朴な(おバカな?)疑問(Q=Question)を、

その道のプロフェッショナルの方々にお尋ねし、
回答(A=Answer)をまとめていた以前の連載「書道に関するおバカな質問」を一新。
新シリーズでは、書家であり研究者でもある財前謙氏が、とことんガッツリお答えします。

疑問を持ちつつ、なんとなくそのままにしていることってありませんか? 游墨舎スタッフが耳にした素朴な(おバカな?)疑問(Q=Question)を、その道のプロフェッショナルの方々にお尋ねし、回答(A=Answer)をまとめていた以前の連載「書道に関するおバカな質問」を一新。新シリーズでは、書家であり研究者でもある財前謙氏が、とことんガッツリお答えします。

Q いろいろある蘭亭序、どれがホンモノ?

 王羲之の名品とされる蘭亭序をしっかり勉強しなくてはと思いテキストを見たら、神龍半印本、定武本、張金界奴本などが載っていました。どれがホンモノですか?(70代、男性)

A 伝来する蘭亭序は、すべてニセモノです。

 世に名品中の名品とされる蘭亭序は永和9年(353)に王羲之が揮毫したものですが、7世紀に唐 太宗が酷愛し、太宗の崩御の後はその遺言でその陵墓である昭陵に埋葬されたと伝わっています。したがってそれ以来、蘭亭序の真跡を目にした人はいません。
 いま目にすることのできる蘭亭序は、太宗がまだ在世のおりに作成された模本と、それらをもとに刻され、そこからとった拓本です。さらにその拓本から重刻が繰り返され、幾種もの拓本が存在します。

 これら無数の蘭亭序のうち、よく知られているのが神龍半印本、定武本、張金界奴本です。
 しかしこの3種の蘭亭序模本だけでも、またさまざま複雑な事情が絡みあっています。そこでまず、その3種の蘭亭序について、整理しておきましょう。

まぎらわしい蘭亭序の名称

 蘭亭序に関しては、それぞれの名称由来の根拠が異なり、そのことがまず混乱を招きます。
 神龍半印本は巻頭に「神龍」印が残っていることに由来する名称、定武本は原石の出土した地名に由来する名称、張金界奴本は巻末に「臣張金界奴上進」と記されている人名「張金界奴」に由来する名称です。その命名は、いずれも王羲之の生きた時代(4世紀)からははるかくだった、後代の所為によるので、王羲之その人の書いた蘭亭序そのものに関わるものではありません。
 また「――本」という名称ですが、個々の墨跡本(紙に墨で書かれたもの)や拓本(碑や版木から写しとったもの)をさす場合と、次から次へと重刻されていったその系統をさす場合とが混同していますので、それらを系統立てて認識することが必要です。
 まずはそれぞれについて、基本的な事項を簡単にまとめておきます。

A 神龍半印本系統
 「神龍」は唐 中宗時代の年号で、西暦では705年~707年にあたります。巻首に「神龍」印の左半分が、巻末に「神龍」印の右半分が残ることから命名されたものです。おそらく神龍年間に装潢(そうこう・表具仕立て)されたとき、紙継の部分に捺され、その後幾度かの改装を経て、蘭亭序の本紙部分に捺された印影半分だけが残ったものと推定されます。
 墨跡本として北京の故宮博物院に現存する神龍半印本は、元時代に郭右之なる人が、唐 太宗時代の榻書人(とうしょにん・模写の専門家)馮承素(ふうしょうそ)によって製作された模本と推定したことから、馮承素本ともよばれます。

神龍半印本系統
神龍半印本(墨跡本)
(北京故宮博物院蔵)
(巻頭部分)
巻首の
「神龍」印(左半分)

 また、清時代に乾隆帝の勅命で内府所蔵の蘭亭序墨跡本3種と、蘭亭序に関する詩文を離宮の柱に刻した際に、この神龍半印本を刻した柱を第三柱としたことから、蘭亭八柱第三本ともよびます。つまり、神龍半印本と馮承素本と蘭亭八柱第三本は同種の蘭亭序をさしますが、それが墨跡本であったり拓本であったりするのと、その都度掲げた名称が異なることが混乱の原因となりがちです。そのためここでは、「神龍半印本系統」と「神龍半印本(墨跡本)」「神龍半印本(拓本)」の表記で区別しておきます。

神龍半印本系統
神龍半印本(拓本)
(木雞室蔵)
(巻頭部分)

明時代の豊坊が刻した神龍半印本

 神龍半印本(墨跡本)は第二次大戦後しばらくしてから、その写真画像が広く知られるようになりました。ここ数十年の出版物では、北京の故宮博物院から鮮明な画像データを借りることが容易になりましたので、蘭亭序というときはまずこれを目にすることが多いはずです。
 また、これが原本の上に薄い紙を重ね、墨跡の輪郭を厳密になぞって、その点画を墨で塡める双鈎塡墨(そうこうてんぼく)という技法で作られた模本であるという立場からすれば、蘭亭序の真跡原本に寸分違わず近いと考えるのが、妥当なところです。

B 定武本系統
 定武本は、唐 太宗の時代から約400年後の北宋時代になって、定武(現在の河北省定州市付近)で蘭亭序の刻石が発見されたことによる命名です。刻石の発見からはじまる定武本ですから、定武本系統に墨跡本は伝世しません。
 穏やかな筆勢を特長とし、欧陽詢が臨書したと推定されていますが、これはあくまでも後代の推定であり、伝称にすぎません。九成宮醴泉銘など欧陽詢の書いた石碑の書風からすると、これを欧陽詢臨模とするには違和感がなくもありません。
 定武本系統の拓本の中でも、元時代の呉炳(ごへい)が旧蔵していた拓本を呉炳本とよび、現在 東京国立博物館に所蔵されているため紹介されることが多く、日本で定武本といえばまずこの呉炳本(拓本)をもって示すのが一般的になっています。罫線があるのが特徴で、定武本の元となった幻の墨跡本は、罫のある紙に臨書したものであった可能性が高いといえます。

定武本系統
呉炳本(拓本)
(東京国立博物館蔵)
(巻頭部分)

 他にも独孤本や柯九思本、落水本、韓珠船本などの名拓も知られていますが、いずれも定武本系統に属するものです。これらは発掘された北宋時代以降、定武本系統の蘭亭序が一定の評価をされてきたことを物語るものです。しかし、風化した碑からとられた拓本は点画の鮮明さには欠けるところが難点です。名拓の誉れはあっても、写真も出版物もなく、限られた拓本でしか蘭亭序を理解するしかなかった時代の評価ですので、それをそのまま現代の科学的な評価とするにはやや厳しいものがあります。

C 張金界奴本系統
 張金界奴本系統は、その巻末に「臣張金界奴上進」の文字があることからの命名であることは前述の通りです。「金界奴」は、『新元史』に記載がある人物で、宮廷の高官であったといいます。別の著述に金界奴が張九思の子とあるところから、金界奴の姓を「張」としています。
 いずれにせよ、「張金界奴が元の王室に奉呈した蘭亭序」が張金界奴本です。
 「張金界奴本(墨跡本)」も北京 故宮博物院に現存しています。明時代に董其昌がこれに虞世南臨書説をとなえたことから、定武本の欧陽詢臨書説とともに、軽く扱うことはできない気にさせられますが、これまたあくまで伝称筆者にすぎません。

張金界奴本系統
張金界奴本(墨跡本)
(北京故宮博物院蔵)
(巻頭部分)
巻末の
「臣張金界奴上進」

 これを清時代に乾隆帝が勅命で刻させた柱を八柱第一としたので、蘭亭八柱第一本ともよびます。したがって、蘭亭八柱第三本と同様に、張金界奴本にも墨跡本と拓本の別があることを認識しておきましょう。
 他の蘭亭序もそうですが、この張金界奴本はいくつもの法帖に重刻され、清時代の梁清標が刻した秋碧堂帖にも集刻されました。その拓本の一つが明治時代に日下部鳴鶴の所蔵となり、その印影が『秋碧堂本蘭亭序』として晩翠軒から出版されました。日本の近代書道における日下部鳴鶴の影響力と、出版書籍として広く蘭亭序を手に入れることが可能になったからでしょうか、近代日本の書家の多くはこの張金界奴本系統にある『秋碧堂本蘭亭序』をもって蘭亭序を学びました。そのため、墨跡本の鮮明な印影が容易に手に入る現代でも、張金界奴本(拓本)の人気は根強いものがあります。

張金界奴本系統
張金界奴本(拓本)
(木雞室蔵)
(巻頭部分)

清時代の梁清標が刻し、
秋碧堂帖に収録した張金界奴本

転写による異同

 いま目にすることのできる蘭亭序の諸本はいずれも、真跡の蘭亭序から派生した模本、さらにはそれぞれからさらに派生した拓本です。人の手で模写がされるわけですから、その技法に関係なく、様々な異同が生じてきます。そこで神龍半印本系統、定武本系統、張金界奴本系統の顕著な異同について、2点確認してみたいと思います。

○「和」について 蘭亭序8行目〈恵風和暢〉
 神龍半印本(墨跡本)では、「和」の旁を「曰」で書き、その刻本である神龍半印本(拓本)も忠実に「曰」になっています。ところが張金界奴本(墨跡本)の「和」の旁は「口」で、その刻本である張金界奴本(拓本)も「口」です。

神龍半印本
(墨跡本)
神龍半印本
(拓本)
(豊坊刻本)
張金界奴本
(墨跡本)
張金界奴本
(拓本)
(秋碧堂本)

 ここだけを比較すると、現在の「和」の旁は「口」で、これを「曰」にするものはまず見かけないので、神龍半印本系統が何かの間違いでそうなったかのように思えます。
 ところが、湖南博物院蔵の絹本蘭亭序(墨跡本)も「和」の旁を「曰」にしており、あながち神龍半印本系統単独の誤りとは断定できません。それどころか、神龍半印本(墨跡本)が双鈎塡墨で作られたという説を前提にするなら、原典である蘭亭序真跡の「和」の旁は「曰」だったとみるほうが妥当です。
 ここから、臨書はいくら原典に忠実だったはずでも、臨書する人の理解と認識が介入し、原典通りに臨書される保証はどこにもないことがわかります。

○「崇」について 蘭亭序4行目〈崇山峻領〉
 「山」を総画数3画で書くのは現代のわたしたちには共通の常識ですが、どうも王羲之の時代にはまだその筆順や総画数に一定の基準はなく、このとき王羲之は「山」を4画で、横画を最後に書いています。これに関しては、神龍半印本(墨跡本)も定武本(呉炳本・拓本)も張金界奴本(墨跡本)も一致しています。
 ところが張金界奴本(墨跡本)を刻したはずの張金界奴本(拓本)ですが、その横画に相当する部分が秋碧堂本はあり、余清斎本には見当たりません。このことは、刻す際にその刻者の理解が反映し、忠実に刻したつもりでも、原典とは異なる刻本になってしまう可能性があることを教えてくれます。

神龍半印本
(墨跡本)
神龍半印本
(拓本)
(豊坊刻本)
呉炳本
(拓本)
張金界奴本
(墨跡本)
張金界奴本
(拓本)
(秋碧堂本)
張金界奴本
(拓本)
(余清斎本)

 つまり拓本は、墨跡本より原典から一歩遠ざかることが納得されます。昭陵に副葬品として埋葬された王羲之真筆の蘭亭序が一次なら、墨跡本が二次、それを刻して作られる拓本は三次ということになります。
 そもそも拓本は、現代のように写真技術がなかった時代に、その図像を多くの人に知らしめる、一種の印刷としてあったものです。したがって現代のように写真技術が発達し、その画像も鮮明で、しかもかつて特別な場所に秘蔵されていた墨跡本でも、精巧な画像が公開されている現代ですから、拓本よりも墨跡本をもって蘭亭序を確認するのが妥当な方法であることは言うまでもありません。
 また先述の通り、各々の名だたる拓本についての見解は、まだ伝来する墨跡本を目にすることができなかった時代の論ですから、そのことを考慮しながら見ていく必要があることは心得ておきたいところです。

ホンモノがないから、想像力が試される

 蘭亭序に関しては、諸本の臨模者一つをとっても混乱をきわめます。
 神龍半印本(墨跡本)は、馮承素が双鈎塡墨したと伝わり、定武本の元となった蘭亭序は欧陽詢が臨書したとされ、張金界奴本(墨跡本)は虞世南が臨書したとされ、それ以外に墨跡本として伝来する蘭亭八柱第二本(北京故宮博物院蔵)、前出の絹本蘭亭序(湖南博物院蔵)、それ以外にも黄絹本蘭亭序(領字従山本・台北故宮博物院蔵)、陳鑑模本蘭亭序(北京故宮博物院)はいずれも褚遂良が臨書したと伝わります。しかし、いずれも推定であり、その確証は得られません。
 神龍半印本以外の蘭亭序には、唐 太宗時代の能筆で初唐三大家とされる欧陽詢、虞世南、褚遂良の伝承筆者名がつけられているところからすると、蘭亭序の真跡が昭陵に埋葬されて以降、幾多の蘭亭序に関する見解が展開されたことをしのぶことができます。しかし、それらはいずれも推定でしかないことを改めて心得ておきたいところです。
 つまり、蘭亭序が実際にどのような筆跡であったかは、じつは誰にもわからないのです。すべて伝説の中にしか、蘭亭序は残っていません。したがって、それらをいくら検証しても、誰もが納得できる結論は得られないというのが、唯一の正解です。

 さてそれはそれとして、真跡がない蘭亭序なので、後代の北宋以降、蘭亭序を愛してやまなかった人々の思いも無視はできないと考えます。
 蘭亭序にかぎらず、真跡が一つとして現存しない王羲之を「書聖」にしているは、その真跡いかんではなく、その継承に意味があるからと考えられます。墨跡本を確かめようもない定武本系統の諸本が珍重されてきたのは、まさに王羲之自身の真跡の問題よりも、それを王羲之として認めてきた歴史上の幾多の人たちの共通理解がそこには込められているはずです。
 あらためて定武本系統で特に優れた名品とされる呉炳本(拓本)を眺めると、原石の摩滅や風化を差し引いても、虚勢のない静かな落ち着いた文字の並びには心惹かれるものがあります。「崇」や「和」字の異同問題などどうでもよく、「やはり書は、このように静かな、落ち着いたものでなくてはならない」と改めて思い出され、「点画が鮮明な神龍半印本系統の墨跡本や拓本だけを見ていては危ない」との思いもわいてきます。
 世に「晋人は韻をたっとび、唐人は法をたっとび、宋人は意をたっとぶ」と言われています。董其昌の言葉といい、以後明代、清代の書人たちのみた書道史観です。
 その点からすると、東晋時代の王羲之には、どうしてもつややかな印象のある神龍半印本系統よりも、定武本系統や張金界奴本系統のような、すこし風貌の穏やかなものがふさわしいという理解があったのではないかと考えられます。双鈎塡墨だから神龍半印本がその文字の影としては最も原典に近いはずですが、それ以外の要素としての穏やかな「韻」を蘭亭序に求めることも必要なように思われます。
 一つの学習法として、神龍半印本(墨跡本)をまず骨格にして蘭亭序を理解し、その上で定武本系統の拓本や張金界奴本(墨跡本)の放つ「韻」を感じながら、一人一人の蘭亭序理解を深めていくのが良いのではないでしょうか。
 どれか一つ、蘭亭序の拓本を手に入れるだけで精一杯だった時代はさておき、現代では様々な蘭亭序を確認できる時代にわたしたちは生きています。点画が鮮明な神龍半印本に夢中になり、またあるときは張金界奴本や定武本の古びた風貌に心惹かれ、その繰り返しでしかないけれど、その往還の中に自らの蘭亭序の像を見つけ出すしかないのだろうと思います。

次の癸丑は、2033年

 「永和九年、歳は癸丑に在り」──この一文にはじまる蘭亭序ですが、癸丑の干支は60年毎に巡ってきます。
 前回の癸丑は昭和48年(1973)でした。したがって次の癸丑は、令和15年(2033)です。7年後、いやもう実質的には6年後に「癸丑」が巡ってきます。
 大正蘭亭会、昭和蘭亭会、それぞれに時代の相を反映した企画が催されました。
 さてさて、令和の蘭亭会はどのように開催されるのでしょうか。
 それまでに、あらためて蘭亭序をおさらいし、自分だけの蘭亭序像を、そして自分だけの王羲之像を描いてみてはいかがでしょうか。

神龍半印本系統
神龍半印本(拓本)
(木雞室蔵)
(巻頭部分)

前々回の癸丑(大正2年)の
京都蘭亭会に出品された内藤湖南旧蔵本
(神龍半印本系統だが、豊坊刻本とは異なる)

◎図版出典

神龍半印本(墨跡本)
・維基百科「蘭亭集序神龍本」
・『北京故宮 書の名宝展』(毎日新聞社・NHK・NHKプロモーション、2008年)
呉炳本(拓本)
・ColBase「定武蘭亭序(呉炳本)」
・『特別展 書聖 王羲之』(毎日新聞社・NHK・NHKプロモーション、2013年)
張金界奴本(墨跡本)
・維基百科「蘭亭集序天暦本」
・季刊 墨スペシャル 第03号 『王羲之』(芸術新聞社、1990年)
余清斎本(拓本)
・『蘭亭序(二種)』(天来書院、1998年)

*木雞室蔵本については、各画像を「游墨舎ちゃんねる」内の参照ページにリンクしている。

財前 謙(ざいぜん・けん)
1963年、大分県生まれ。第1回「墨」評論賞大賞。白川静漢字教育賞特別賞。
『日本の金石文』(芸術新聞社)、『手書きのための漢字字典(第二版)』(明治書院)、
『字体のはなし ― 超「漢字論」』(明治書院) 等の著書がある。
NHKラジオ「私の日本語辞典」〈漢字の字体を考える〉全4回(2020年11月放送)は、
今もYouTubeで視聴できる。
団体に所属せず個人で活動を続ける。長年、早稲田大学で非常勤講師も務めている。

財前 謙(ざいぜん・けん)
1963年、大分県生まれ。第1回「墨」評論賞大賞。白川静漢字教育賞特別賞。『日本の金石文』(芸術新聞社)、『手書きのための漢字字典(第二版)』(明治書院)、『字体のはなし ― 超「漢字論」』(明治書院) 等の著書がある。NHKラジオ「私の日本語辞典」〈漢字の字体を考える〉全4回(2020年11月放送)は、今もYouTubeで視聴できる。団体に所属せず個人で活動を続ける。長年、早稲田大学で非常勤講師も務めている。

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