鑑定から鑑賞へ 人と書と歴史を探究する 文/増田 孝 第43回 本阿弥光悦筆「蓮下絵百人一首和歌巻」(7の1)

増田 孝(ますだ・たかし)
1948年生まれ。東京教育大学卒業。博士(文学)。愛知文教大学教授、学長を経て、現在、愛知東邦大学客員教授。公益財団法人永青文庫評議員。テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」鑑定士。
主な著書に『光悦の手紙』(河出書房、1980年)、『茶人の書』(文献出版、1985年)、『書の真贋を推理する』(東京堂出版、2004年)、『古文書・手紙の読み方』(東京堂出版、2007年)、『書は語る 書と語る 武将・文人たちの手紙を読む』(風媒社、2010年)、『本阿弥光悦 人と芸術』(東京堂出版、2010年)、『イチからわかる 古文書の読み方・楽しみ方』(成美堂出版、2024年)、“Letters from Japan’s Sixteenth and Seventeenth Centuries”(Institute of East Asian Studies, University of California, Berkeley, 2022)など。

第43回 本阿弥光悦筆「蓮下絵百人一首和歌巻」(7の1)

慶長期に書かれた屈指の名品

 本阿弥光悦の書いた和歌巻のひとつに「蓮下絵(はすしたえ)百人一首和歌巻」(以下「蓮下絵和歌巻」と略称)がある。書風から、これの書かれたのはおよそ慶長10年(1605)代の前半と推定される。光悦の創始した書を光悦様とよんでいる。光悦様は慶長5年のころに、わりと短時日のうちに形成されたとみられることについては、すでに詳しく述べたところである(第232425回)。
 完成間もないころの光悦様というのは、線の細太や抑揚、弾力をもった、当時としては新鮮な魅力に富んだものであり、またこのころの書風からは、線の堅さや緊張感なども感じられる。それが慶長10年ころになるとそうした要素は消え、力を内包し、ふっくらと温かみのある豊かな線に変化してゆく。このころの書をもって光悦様の完成と見ることができ、能書家光悦にとっての最も輝かしい時期だったといえるであろう。
 これから7回にわたってとりあげようとする「蓮下絵和歌巻」は、光悦様の完成した一時期に書かれたものであって、数ある慶長期の光悦和歌巻のなかでも、屈指の名品に位置付けられるべきものなのである。多くの光悦和歌巻は、伝来の途中で切断の憂き目にあった結果、原形を留めているものはほとんどなく、「蓮下絵和歌巻」もまたその例外ではない。
 「蓮下絵和歌巻」は、金銀泥によるいわゆる宗達下絵の上に、光悦が百人一首を書いたものである。ところが、大正12年(1923)よりも前の時点で、半数近い43首が散佚してしまっていた。その後、散佚をまぬがれた残りの57首も、大正12年9月の関東大震災で烏有に帰してしまった。そのようなわけで、いま私たちが光悦肉筆の「蓮下絵和歌巻」を見ることのできるのは、焼失以前に散佚した断簡のうち、後世、再び発見されたものだけに限られる。
 この和歌巻の特徴は、なんといっても歌数が全100首という、光悦和歌巻のなかでも最大級のものであること。光悦はこの未曾有の長巻の揮毫をするに際して、いったいどのような構想を懐いたのだろうか。そして具体的に揮毫をどのようにすすめていったのか。これらの諸点は、光悦の書の魅力を探ろうとする私たちにとって、じつに興味深いテーマなのである。
 よく知られるように、光悦は寛永14年(1637)に80歳の生涯を閉じた。当時としてはじつに長命である。ところが、55歳の春、はじめて軽度の脳血管障害を患ったあと、幾度も発作をくり返したことがはっきりしていて、病気の後遺症は年々重くなっていった。そのような体でもなお、光悦はずっと筆を執り続けているのである。書家としてのそのような状況は、けっして幸いなこととは言えないかも知れないけれど、光悦はめげることはなかった。
 そのような生き方こそが光悦の身上だと思われる。光悦は、日常的な手紙の執筆をこなしたことはもちろん、年老いてからも、他所から依頼される和歌や詩文の揮毫をこころよく引き受けていることが、手紙などからも確認できる。
 ことに寛永年間に入ってからの筆跡には、それまでとは比べようもないほど著しい変化が見える。これらの事実を念頭に置きながら、光悦和歌巻を眺めてみる必要があるわけである。能書家光悦が書いた、病気以前の最も高水準の書として「蓮下絵和歌巻」の魅力と、創作の秘密をしばらく味わうことにしたい。

断簡と複製本

 ところで、散佚していた断簡が後世発見されることはよくある話だけれど、この和歌巻を通覧する上で欠くことのできない重要な資料が断簡以外にもじつはある。それは原本焼失以前に作られた複製本である。しかしながら、これは多数が散佚したのちに作られた複製であるゆえに、100首が揃って見られるわけではなく、散佚をまぬがれて残った57首だけである。そのあたりの事情については追々お話することにしよう。これが複製であるとはいえ、当時としては先進的な印刷技術を用いたものであり、ここから得られる知見は、けっして少ないものではない。複製本を熟覧することなしに「蓮下絵和歌巻」の書全体を語ることは難しいといっても過言ではない。私は、若いころに光悦の書に関心を持ち始めて以来、この和歌巻に対して言葉では言い尽くせない魅力を感じてきたひとりである。
 いま複製本によって見ることができるのは、100首のうち、和歌番号1~20、27~32、51~73、81~85、93、94、96の計57首である。全体からみると、これは半数をやや超える分量でしかなく、残りの43首は複製作成以前に散佚してしまっていた。散佚したものが見つかり、現在までに写真図版によって筆跡の確認できるものが少なくない。和歌番号22~26、35~37、39~48、74、75、79、80、86、87、89~92、95、97~100の計33首である。
 これら再発見の断簡と複製本の57首とを合せると、なんと90首にのぼる筆跡を見ることができるわけである。未発見のものは21、33、34、38、49、50、76、77、78、88の計10首のみである。私は、筆跡を確認しうるすべてをここに並べてみることで「蓮下絵和歌巻」100首中90首の復元を試み、この和歌巻の書の魅力を解明しようと思うのである。
 かつてこの和歌巻は、大正年間には新興財閥の大倉喜八郎(1837~1928)の所有であった。ところが、大倉家にある間に、100首のうち、後半を中心とする約半数が散佚したのである。残ったのは57首。たしかな記録がないために、このあたりの事情ははっきりとしない。
 しかし不運にも、残った光悦の肉筆は1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で焼失してしまった。だから、焼失以前に散佚した43首だけが焼けずに済んだということになる。なんという皮肉であろうか。

複製本に見られる継ぎ痕

 ここで話が少し前後するけれど、後半の大部分が流出したあと、焼失する前に、大倉は残った原本を写真撮影し、複製を作っておいた。その印刷には、コロタイプという当時としてはもっとも進んだ技術が用いられ、今はこれによって光悦の筆跡を彷彿することができるのである。「蓮下絵和歌巻」が希有の名品であるにもかかわらず、展覧会などでときおり見ることのできる肉筆は、後世発見された断簡だけに限られるのである。印刷本などが展覧会に出品されることは、まずないからである。ところで、後年、複製本全部を掲載している本が一種だけ刊行されている。それは『本阿弥光悦』(『書道藝術』第18巻 昭和46年 中央公論社)である。同書には、刊行時までに発見された断簡の写真も僅かに加えられている。

『本阿弥光悦』(『書道藝術』第18巻)より
「蓮下絵百人一首和歌巻」

 そのようなわけで、本稿をなすにあたっては架蔵する複製本をあらためて撮影することにした。これらを通覧することで、はじめて和歌巻の成り立ちや、各断簡どうし、あるいは断簡と複製本とのつながり具合などが確認できるであろうと思ったからである。またこれにより、この大作に挑(いど)む能書家光悦の〈書の方法〉の秘密が少しでも解き明かされるのではないだろうか。
 複製本を丁寧に見てゆくと、光悦が揮毫する際の料紙の継ぎ目痕まで印刷されているのである。ところが、さらによく見ると、これら元からの継ぎ目のほかにも、後世の切断の痕と思しき、不規則的な継ぎ目も残っている。
 和歌を切り取る際には、作者名と和歌とがあくまでもひとまとまりのものとして考えるはずだから、和歌の途中で切るということは考えにくい。ところが、この和歌巻にはそうではない継ぎ痕も残っているのである。これはいったい何なのか。このあたりに、「蓮下絵和歌巻」制作過程や、複雑な伝来を解く鍵が隠れているように思われるのである。
 もと「蓮下絵和歌巻」は、大倉が入手したときは巻子装だったであろうということはさきに書いた。ところがその後、いったん巻子が解体され、襖に貼られたように仄聞(そくぶん)している。その結果、他人の目に触れる機会が多くなり、散佚が始まったようなのである。ところが当時、このことに対する批判も出たらしい。そこで大倉は、残った断簡を再び襖から剥がして、巻子本に仕立てなおしたという逸話がある。しかし、そうした経緯を裏付ける史料はないのである。いま複製本を注意深く眺めると、もとの巻子から切り取られて散佚したというだけでは生じないような、いくつもの切り継ぎ痕がのこっている。

さらに留意するべきこと

 ところで、このような推量をしては光悦にはたいへん失礼なことになってしまうけれど、書きながら書表現に納得のゆかないような場合には、揮毫途中で紙を切りつなぐことも皆無とはいえないのではないだろうか。もしそのようなことをすれば、当然、下絵との兼ね合いも問題となってくる。しかし、そのような事柄をここで抽象的に論ずることはできないであろう。いま注意したいのは、その継ぎ目の痕跡がはたして光悦によるものなのか、後人によるものなのかという点なのである。
 また光悦自身が、書いた後になって読みなおしてみたとき、誤字や脱字に気づくことがあるかも知れない。そのようなときは、もはや戻って料紙を切ることはできないから、そこだけ文字の訂正で済ますことになるだろう。この和歌巻の中にも、そうした箇所が複数存在している。
 そのような眼で複製本を眺めてゆくときに、もうひとつ、留意せねばならないことがある。それは、揮毫や伝来とは無関係な、印刷本ゆえの問題である。ここには本の紙の継ぎ目もあるわけで、そのところにインクの濃淡の差が出てしまっていることである。はやく言えばこれは印刷技術の問題なのである。1世紀近い昔の技術の拙さから、このような紛(まぎ)らわしさの存在するのはやむを得ないことなのかも知れない。しかし、複製本を間近(まぢか)に見ることで、印刷による濃淡の差であることは確認できるので、見まがうおそれは少ない。そしてそれらはきちんと一定の間隔で存在する。印刷上の疑問は、複製本を見ることによって解決される問題なのである。
 あらためて継ぎ目を数えると21箇所。だから料紙の総数は大小22枚である。しかも紙の大きさ、形は不揃いのところがある。不揃いとなった理由は、さきほど述べた、後世の切断と関係するかも知れない。
 継ぎ目を見る際、最も重要なのは、それを挟む行間の余白の幅である。なぜなら、後人が、いったん完成した和歌巻を切ったあとで、それを再度つなごうとすると、糊代(のりしろ)が必要となる。だからそこだけは前行との間隔は狭まるはずだからである。もしそこに下絵があれば、下絵もつながらなくなるという、これは道理である。その点に留意しながら見てゆく必要がある。

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