今月の名品 vol.42 周作人「右台仙館筆記」

周作人「右台仙館筆記」

 此文は、1940年12月17日に『庸報』に発表された「右台仙館筆記」であり、張菊香主編『周作人年譜』に収録されている。本稿は周作人専用の淡緑色の原稿用紙に書かれ、題名の下には「知堂」と署名され、朱文印が押されている。文中では、『芸風堂文続集』における兪曲園(兪樾)への評価を通して「右台仙館筆記」を論じている。
 鮑耀明と周作人は、7年にわたり通信のやりとりをしていた。当時、新加坡《南洋商報》社は香港・中環の旧東亜銀行9階に駐港事務所を置き、周作人は「墾創社」の雑誌『熱風』に寄稿していた。同僚には曹聚仁、朱省斎、李微塵らがいた。鮑耀明は曹聚仁を通じて周作人と知り合い、両者の往復書簡と日記は、周作人晩年の生活を研究する第一級資料となっている。
 鮑耀明が本稿を入手した経緯は、『周作人与鮑耀明通信集 1960-1966』87頁に詳しく記録されており、この原稿は1961年7月28日に周作人より発送されたことがわかる。また同書90頁には、鮑耀明が8月4日に本稿を受け取った旨が記されている。
 その後、鮑氏は日本三井洋行香港支店の副総経理を務め、夏目漱石『吾輩は猫である』など日本文学を紹介・翻訳したことから、岩波書店編集者・玉井乾介(1965年『図書』漱石特集号の編集を担当)と深く知り合うに至った。鮑氏はさらに本稿を玉井に譲渡した。
 この伝存の過程は、周作人・鮑耀明・玉井乾介という中日3名の文人による交流の雅事を証するのみならず、1950~60年代の香港・台湾と日本との文化交流の脈絡にも連なっている。ゆえに、本稿は周作人晩年の思想、文学評論、そして文人交遊史を研究する上で重要な資料である。

◉資料提供/光和書房
◉解説/呉 忠銘 

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