今月の名品 vol.36 王静庵先生殉節記念冊

王静庵先生殉節記念冊
昭和2年(1927)

表紙

王国維(1877〜1927)
字は静安、静庵
諡は忠慤
署名

偏是雞林欽節概
偏に是れ鶏林、節概を欽むなり

(*1)

 先曾祖静安公が1927年(民国16年、日本昭和2年)6月2日に憂憤して自沈された後、北京、天津、京都の三地において相次いで葬儀と祭事が挙催された。その中で北平の霊堂は「北京下斜街全浙会館に幕を設け、喪家は清華学校西院十八号に住む」とあり、2日後には羅振玉(雪堂)先生が天津の日租界公会堂において弔祭を開いた。同月25日には、日本の知交後学が京都五条坂袋中庵において経を奉じて追悼を行った。

 3つの儀式における挽聯や祭文は、多くが同年に刊行された『王忠愨公哀挽録』に収録されている。『哀挽録』は祖父王高明(*2)等の遺族が具名したものだが、その事を主催し刊行したのは実際には雪堂先生であった。旧式の哀挽録の体例に限られ、悼念の文字を輯録することを要とし、葬儀の始末は多く記載されなかった。全浙会館の来客については、当時記者として橋川時雄が抄録した110人の名簿があるのみで、天津の祭会の規模は北平とほぼ相当であったが、詳情は載録されていない。

 京都袋中庵追悼会の実況については、私は以前『哀挽録』中の「海外追悼録」「華僑哀挽録」部分を通じてその大略を知るのみであった。『録』中には狩野直喜、内藤湖南、鈴木虎雄、神田喜一郎の4人が6月21日に起草した招集小啓、長尾甲祭文、記念冊序、到会同人51人の題名、および4人の発起人に木村得善を加えた5人の悼詩が収録されている。これらは神田氏旧蔵の墨跡本(「王静庵先生殉節記念冊」)よりもさらに完備した内容である。

 袋中庵の追悼会に参加した多数は京都大学の学人であり、同年8月の『藝文』雑誌に発表された発言記録によれば、現場で発言した者は狩野直喜等十数人に上ったことが分かる。その他、木村得善はかつて王氏家族の病気を診た医師であり、小林忠治郎、原田悟朗は出版界の人士である(原田氏は静安公の蘭亭詩会詩の墨跡を収蔵し、聞くところによれば今も家にあるという)。呉功補、李満康(『哀挽録』では誤って李満庚と作る)は当時神戸華僑同文学校の校長、講学会代表を務めた広東、福建籍の華僑代表である。第2位に署名したネフスキー(また聶歴山と名のる)は在日のロシア系学者である。もう1人蒙古文で署名した吾西保栖については生涯詳らかでなく、博学の方にご教示いただければ甚だ幸いである。

 翌年曾祖母潘氏は家族を携えて南帰し、所蔵品は乱世の遷移中に屡々失われた。私の大伯母、静安公の長女王東明はかつて回想して、高校に入学した時に家貧のため、葬式でいただいた挽聯を蚊帳に仕立てたと語った。また、許礼平先生にはかつて京都において鈴木虎雄先生から木版印刷の先曾祖の訃告や謝啓等の旧蔵品をいただいたと教えてもらったことがあるが、これらは当時遺族が特製して弔客に回贈したものと思われる。しかしこの類のものは、受け取った者も長く保存することがなく、現在中国にはほとんど残っていない。

 この「記念冊」は「殉節」と題され、本文では「忠臣義士」を標榜している。後に発表された参加者の談話摘要を調べると、当時日本人の静安先生自沈の理由に対する見解は一致しており、国内の紛糾した見解とは全く異なっていたことが分かる。序に「参会者およそ五十一人がそれぞれその名前を記念帖に書いてその家に送る」云々とあるが、結局実現されなかったもののようである。この「記念冊」は神田氏数代の旧蔵を経て、唯一の真跡と確認できる。静安公が亡くなってからまもなく100年に至る今、再び世に現れ、感慨無量で、つい雑然ながらも数語を記してこれを識す。

王亮 2025年5月25日 滬上にて

訳者注
*1 鶏林は新羅の古称である。ここでは日本を含めた海東を広く指している。
*2 字仲聞、王国維次男

偏是鸡林钦节概

 先曾祖静安公于1927年(民国十六年、日本昭和二年)6月2日忧愤自沉后,北京、天津、京都三地先后举办奠仪和祭会。其中北平的灵堂“幕设北京下斜街全浙会馆,丧居清华学校西院十八号”;二日后罗振玉(雪堂)先生在天津日租界公会堂开吊治祭;同月二十五日,日本知交后学在京都五条坂袋中庵奉经追悼。

 三场仪式中的挽联祭文,多已收入是年成书的《王忠悫公哀挽录》。《哀挽录》由祖父王高明等遗属具名,主持其事并付刊者实为雪堂先生。限于旧式哀挽录的体例,以辑录悼念文字为要,治丧的始末多付阙如。如全浙会馆的吊唁来客,仅有当时作为记者的桥川时雄抄录一百一十人的名单,天津的祭会规模几与北平相当,但详情未见有载录。

 京都袋中庵追悼会的实况,本人以前都是通过《哀挽录》中“海外追悼录”“华侨哀挽录”部分知其大畧。《录》中载录了由狩野直喜、内藤湖南、铃木虎雄、神田喜一郎四人于六月二十一日起草的召集小启,长尾甲祭文,纪念册序,到会同人五十一人题名,以及四位发起人加木村得善共五人的悼诗。较此神田氏自存墨迹本内容更为完备。

 参与袋中庵法事追悼的多数为京都大学学人,据同年八月《艺文》杂志发表的发言记录,可知现场发言者有狩野直喜等十多人。此外木村得善是曾为王氏家人看病的医生,小林忠治郎、原田悟朗则为出版界人士(原田氏收藏静安公兰亭诗会诗墨迹,据闻仍存于家)。吴功补、李满康(《哀挽录》印本误作李满庚)则为时任神户华侨同文学校校长、讲学会代表的广东、福建籍侨首。排在第二位的聂斯克(又名聂历山)为旅居的俄裔学者。另一位以蒙文签名的吾西保栖则生平不详,甚望博闻多识者有以告我。

 次年曾祖母潘氏携家人南归,家藏在世乱迁徙中屡屡佚失。我的姑婆、静安公长女王东明曾回忆高中入学时以家贫之故,还以受收的挽联制为蚊帐,许礼平先生尝告知在京都时曾受赠铃木虎雄先生旧藏先曾祖木版刷印讣告、谢启等遗物,应是当时遗属特制回赠吊客之用,但此类什物受者多不能久存,现下国内鲜有孑遗。

 此《纪念册(帖)》题名“殉节“,内文标举”忠臣义士“,验诸后来发表的与会者谈话摘要,可知当时海东人士对于静安先生自沉的缘由见解一致,与国内之纷挠异辞全然不同。纪念册序谓”与会者凡五十一人各书其名姓于纪念帖送至其家“云云,似终未付实施。此册(帖)历神田氏数世旧藏,可以确认为唯一原迹,在静安公去世将近百年之际复现于世,感怆无既,遂拉杂略书数语以识之。

王亮 2025年5月25日 于沪上

輓詩

◉資料提供/光和書房
◉解説/王亮
◉翻訳/劉斯倫

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