

開通褒斜道刻石 旧拓本
後漢・永平9年(66年)
文/伊藤 滋(木雞室)
摩崖に刻された古代文字の発する魅力は、人を引きつけてやまないものがある。漢代の「開通褒斜道刻石」は摩崖刻石の第一に挙げられる。現存する摩崖刻石の中で、その書風、規模、年代からみて、摩崖書の祖というべきものであろう。現在にあっても多くの人々を魅了し続けている古典的名作である。後漢前期の古い隷書体で書かれている。点画に波磔などを具えた「八分隷」的な筆勢は見られない。文字の大小・布置や行間のとり方などが、整っておらず、やや自由奔放の感がある。縦、横の文字の配列、文字の大きさなどは、やや後の多くの漢代の刻石の洗練された整斉な布置と比較してみると、全く異なり、やや前時代的である。
拓本を通してみると、摩崖特有の岩面の石紋、さらに二千年近い年月による風化と相まって、重厚で野性味ある字画は、不思議な書風を醸し出している。先人の「開通褒斜道刻石」の書法批評としては、楊守敬の『激素飛清閣平碑記』に「……長短廣狭、参差として斉しからず。天然の古秀、石紋のごとく然り。百代而下、摸擬するによしなし。これを神品と謂う。……」(文字の大小・布置や行間のとり方などに自在の変化があり、天然自然のおもむきがあり、その美しさは学びがたいものがある。書として最も優れた品格を具えたものということができよう)とある。




「開通褒斜道刻石」とは、険しい山崖に木組の橋脚を打ち込み、清水の舞台風に横にせり出した橋のような道などを制作した事績を山崖の壁に刻した記念碑である。名称は、「漢中太守鉅鹿鄐君開通褒斜道碑」(碑の代わりに「摩崖」「刻石」「石刻」などの語を付したりもする)ともいう。また刻された永平年間(西暦58〜75年)の年号を冠して、「漢永平開通褒斜道刻石」とも称す。摩崖の本文に漢の永平6年に修復の命を受け、工事を終了したのが、永平9年(西暦66年)と記されていることから、刻された年月は、永平9年か、そのすぐ後とするのが妥当であろう。この摩崖刻石は陝西褒城(現在の勉県)の北の石門渓谷の道沿いにあったが、ダム工事のために漢中博物館に移築されている。摩崖刻石の大きさ(文字部分の最大のところ)は、縦が120センチ、横が250センチである。
「開通褒斜道刻石」の拓本は、未剜本(旧拓本)と補刻本の2種に分けられる。「開通褒斜道刻石」の石質は、石英片岩の一種で、風化すると表面が雲母状になり、極めて剥落しやすくなるという。「石門頌」「楊淮表紀」「石門銘」などとは石質が異なる。取拓のために石面が次第に剥離し、字画が不鮮明に変化した部分が、清朝後期に40字余り補刻された。旧来の字画と異なった字画に刻された文字が生まれた。整拓本の6行目「鉅鹿」の「鹿」字は、字画が異り、下の「鄐」の字は見えるように補刻されている。市場に流布している拓本の大部分は、補刻拓本である。手を加えられていない旧拓本は、大変珍しい。今回取り上げた拓は、既に折帖に剪装されているが、補刻前の旧拓本に属する。
傍線を付した文字は清代末期に補刻された。
① 永平六年漢中郡以
② 詔書受廣漢
③ 蜀郡巴郡徒
④ 二千六百九十人
⑤ 開通褒斜道
⑥ 太守鉅鹿鄐君
⑦ 部掾冶級王弘史荀茂
⑧ 張宇韓岑等興功作
⑨ 大守丞廣漢
⑩ 楊顯将相用
⑪ 始作橋格六百丗三間
⑫ 大橋五爲道二百五十
⑬ 八里郵亭驛置徒司空
⑭ 褒中縣官寺并六十四所
⑮ 最凡用功七十六萬六千八百
⑯ 餘人瓦丗六萬九千八百
※丸囲みの数字は整拓本の行数。整拓本はこちらを参照のこと。


近拓本の「書」と「鄐」は補刻されている
◉資料提供/光和書房