漢故雁門太守鮮于君碑(鮮于璜碑)
後漢・延熹8年(165)
漢故雁門太守鮮于君碑、又は鮮于璜碑と称し、後漢の延熹8年(165)に立てられるが、書者は不明である。1973年に中国天津市の武清県・高村郷より出土し、圭形を呈して、高さが 242 cm、幅が 83 cm、厚さは 12 cmである。現在は天津市芸術博物館に所蔵されている。
鮮于璜(44〜125)、字は伯謙、後漢・漁陽郡雍奴県の人。度遼右部司馬・贛榆県令などを歴任し、漢の永初元年(107)に雁門郡太守となり、延光4年(125)に没する。本碑は鮮于璜が亡くなった 40年後の延熹8年に、孫の魴・倉・九が先祖の功績を謳うために立てたものである。
鮮于璜碑の字画は結体端正で、方折を強調した運筆に古朴な趣がある。特に碑陰の書風は張遷碑に酷似し、それに匹敵する漢隷の名品と看做されている。
鮮于璜碑は、新中国成立後に発見された最も損傷が少なく字数の多い漢碑として、出土して間もなく、天津市芸術博物館に移動され厳重な保管の下に置かれた。そのため、拓本の流通は極めて少ない。現代中国の著名な文学者にして金石拓本の収蔵でも有名な施蟄存は、本碑の拓本を手に入れるために、天津在住の知人である張厚仁に何度も手紙を寄せたという。その手紙の中で、「全套のものが手に入れば、どんな条件であれ、構いません。お願いします」(1975年7月17日)と書いていることから、その貴重さは容易に想像できるだろう。
資料提供/光和書房
解説/劉斯倫