木雞室名品《游墨春秋》 第21回 礼器碑 落ち穂拾い記③ 金正喜題簽本 碑陰

礼器碑(れいきひ)
156年(後漢・永寿2年)

 朝鮮の書道史において金正喜の書は、実の伸びやかで、大胆であり、独自の世界を創り出している。隷書の横書き作品には魅力的なものが多い。李朝の書聖として第一に挙げられ、名門に生まれ、若くして清国に赴き、乾隆・嘉慶の金石名家・翁方綱らとの交流を持ち、朝鮮にあって、金石書画に優れた業績を残した。
 前回示した金正喜題簽本『礼器碑』はこうした時代の伝来品であろう。造本は、李朝装であるが、中身の『礼器碑』は、乾隆・嘉慶期の原刻擦拓旧本である。署名や落款印はないが、金正喜の題簽「礼器碑 上 御賜」、他に、次の見返しの右上端に更に少し大きく「御賜」と雄渾に書かれている。この小さな「御賜」の隷書風の文字の筆勢は、金正喜の独自の趣を示して、横額の隷書の名品を彷彿とさせる。「申櫶私印」「臣申観浩」「宣賜珍蔵」等鑑蔵印、巻末に付された尹師国の『礼器碑』釈文などから、金正喜ら李朝の文人に逓蔵されていた。
 この帖は、平成2年(1992)の秋に目にして、その翌年頃に入手した。それから20数年を経て、この『礼器碑』の碑陰拓本の小さな図版を見つけた。

ネットのオークション情報で見つけた碑陰拓本の小さな図版

 近10数年は、中国のネット環境も著しく進歩し中国各地でのオークション情報を簡単に見る事が出来るようになっていた。各地で開催された古籍善本の目録等の過去の情報も見ることができる。「北京百衲2015年秋季拍売会」を閲覧していたときに、見覚えのある題簽が付された『礼器碑』碑陰を発見した。ネットの画像を拡大して、「御賜 礼器碑陰」の題簽を確認した。家蔵碑陽本の連れである。
 オークション会社の解説では、朝鮮の原装であり、明拓の碑陰拓であり、李朝の名臣・申櫶(1811〜1885)の旧蔵、日本学者速水一孔の旧蔵であると記されていた。6頁の図版が示され、「宣賜珍蔵」等鑑蔵印や速水一孔の跋文を見ることができた。家蔵本の碑陰が、そのままに伝来し、中国のオークションに出ていた事実を知り驚いた。
 その後、北京に出向き、古書店などを巡り、いつもの様に数年前から知り合った碑法帖を専門に扱う若い新進気鋭の唐氏の店に遊び、新たに収穫した碑帖などを見た後に、書棚の資料や商品を自由に一人であれこれ見ていたときに、各種の雑本の中に、あの「北京百衲2015年秋季拍売会」で見た『礼器碑』碑陰を見つけた。

巻頭
巻末

 驚いて唐氏にこれが欲しいと告げ、直ぐに所持していたパソコンを開き、金正喜題簽本を見せ、この本の碑陰本と本来一緒の帖である事を説明した。碑陰の題簽、また見返し右上端の「御賜」の文字も全く同じ金正喜の書である。驚いた彼は、直ぐにこの拓帖をあなたに贈呈すると言われた。唐氏が、2015年の百衲秋季拍売会に参加し、不全本であるが、旧拓なので購入したと後で教えてくれた。

見返し
見返し右上端の「御賜」

 金正喜時代には、碑陽、碑陰が完全であった。その後、李朝時代のいつ頃か碑陽と陰が別々に分かれたたようである。碑陰にある大きな3顆の鑑蔵印が、碑陽本には捺されていない。碑陰は、戦前日本の速見一孔の所蔵となり、恐らく近年まで日本に所蔵されていたと考えられる。碑陽も関西から出品された。これが百数十年ぶりに揃ったのである。まさに珍しい奇縁としか言いようがない。長年の古書道楽の、唯一の奇蹟に近い巡り合わせである。帰りに、唐氏の鑑蔵印を捺し、日本に持ち帰り、直ぐに自ら虫損を直し、重装し、新たに表紙を碑陽に合わせて付け、旧題簽を元の位置に、そして碑陽碑陰を一帙に収め、大事にしている。

入手時の表紙
改装後の新たな表紙
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