木雞室名品《游墨春秋》 第17回 孔宙碑 落ち穂拾い記

孔宙碑(こうちゅうひ)
164年(後漢・延熹7年)

巻頭見開きの冒頭3行
全体は前回紹介
花梨の板表紙
見返しの題記

 学生時代は、各種の金石拓本や蘭亭序を始めとする法帖の新旧の影印資料をできるだけ多く求めた。時折、古書店で原拓本を目にすることがあった。原拓本は、新旧の影印本と異なり、とにかく重厚感を感じた。表紙からして各々異なり、本も厚く重みがあった。店頭で見せていただくときは、できるだけ丁寧に取り扱い、破損しないように、書帙が付せられた高額な本は、注意深くページを繰った。原拓は、印刷本と異なり、本物の持つ臨場感がある。
 今から40年前の30代頃、普通の漢魏六朝碑の拓本が、専門店では数万円していた。私にとっては高いものであった。神保町の古書の市場では、曜日毎に各種の市があるらしく、毎週のように通って馴染みになると、そうした事情を教えられ、市で購入されたものをよく見せてもらった。端本や小品の珍しい拓本などを安く譲ってもらったこともある。
 そうした店の一軒、本郷のH書店で、花梨の板表紙の、剪装本の漢の流麗で伸びやかな書風の『孔宙碑』を購入した。題簽は無く、板表紙の見返しは薄茶色の虎皮宣で、端に整斉な隷書で「光緒乙酉三秋仲起獲於羊城」、光緒11年(1885)に入手したことを記した題記が書かれてあった。
 碑帖拓本の新旧や原刻、翻刻などの相違を各種の書物を見たり、影印資料との比較などをしながら調べ始めていた頃であろうか。購入後、二玄社の書跡名品叢刊の『孔宙碑』や戦前の『書苑』(三省堂刊)に影印された書道博物館所蔵の宋拓本などを参考にし、求めたものが原刻拓本であり、清末民国期の近拓でなく、「訓」字未損本とされる旧拓であり、拓調はやや淡い擦拓で鮮明に拓出されていると認識した。

「訓」字 新旧比較

 書道博物館本は、古い拓であるが、虫損が甚だしく、字画が不鮮明であった。書跡名品叢刊の『孔宙碑』は、底本が西川寧先生所蔵であり、今回求めたのが、同じレベルの旧拓本であることが、大変嬉しかった。何度も他の資料や書跡名品叢刊本と比較したことを覚えている。
 また帖中には、先人の20数顆の鑑蔵印が捺されてあり、巻末の文字のない拓本部分には、清朝の有名な書法家・伊秉綬の金泥による跋文があった。碑法帖を勉強し始めたばかりの若造の購入した拓本にある有名な伊秉綬の跋は、どう見ても偽ものであり、これがこの旧拓本の欠点であり、更に朱で捺されている鑑蔵印のいくつかも変に目に付き、伊秉綬の金泥跋とともに目障りに感じ始めていた。

巻末の伊秉綬の金泥による跋文

《釈文》
此漢之孔宙碑舊蔵於京陵王氏後帰
山陰童氏余出守恵州時適有友人
銭楳谿太史過訪以此碑見示柶譚
終日結為金石契細読其文見其墨
色淋漓尚有古香之気爰題数語
以為好事者所珍重耳
嘉慶甲子秋九月中澣日
汀州伊秉綬観井記 「伊氏秉綬」(印)「黙庵」(印)

 伊秉綬(1754〜1815、字は組似、墨卿と号した。晩くには黙庵とも)は、清朝後期の書法家である。高島槐安居旧蔵『宋拓多宝塔碑』の巻頭に書かれた「宋拓僅存」の題記は、重厚な隷書で大変魅力的であり、忘れがたい作である。しかし家蔵本の鑑蔵印や跋は、その当時、見れば見るほど気になり、いつ頃か、目障りな印数顆を削り落とした。黒い拓紙の上に捺された印影は、削りにくく耐水ペーパーでなんとか見えないように朱を落とした。伊乗綬の金泥跋も同じように試みたが、朱と異なり上手くできず、削り落とすのを諦めた。

高島槐安居旧蔵『宋拓多宝塔碑』(東京国立博物館蔵)の巻頭に書かれた
伊秉綬の題記「宋拓僅存」
図版出典:ColBase

 10年ほどして、昭和62年(1987年)頃、神保町で文房四宝を扱っていたS氏が、珍しい中国の方を連れて来宅された。上海の朶雲軒からアメリカのクリスティー・オークションの中国書画部門に転職された馬成名氏と氏の後輩の張榮徳氏であった。馬成名氏は、『増補校碑随筆』で有名な王壮弘氏の後輩であり、碑法帖・書画の専門家であり、研究者としても著名な方である。家蔵の金石拓本をあれこれお見せしながら、意見交換した。そのときに、この『孔宙碑』の旧拓本は、拓調は大変いいのですが、鑑蔵印やこの伊秉綬の金泥の跋がどうも気になりと私見を述べてから、お見せした。馬、張の両氏とも、この伊秉綬の金泥の跋も鑑蔵印の伊秉綬の「東閣梅華」、鄭板橋の「二十年前旧板橋」の朱文印や、銭梅渓の「銭泳之印」「立群」印も問題ないのではと。この『孔宙碑』は清朝の名家・伊秉綬や鄭板橋等の逓蔵を経た善本であると。この言は予想もしなかった。

「東閣梅華」
「二十年前旧板橋」
「銭泳之印」
「立群」

 しばらくして、巻頭の「山陰童氏家蔵」印の左側の削り落とした印影が、伊秉綬の自用印の「広陵太守」の白文印であったことに気がついた。僅かであるが、黒い拓紙の上に薄っすらと窺い見ることができる。取り返しのつかないことであった。それ以後、跋文や鑑蔵印も丁寧に見るように心掛けた。

「山陰童氏家蔵」(右)と朱を落とした印影の跡(左)
「広陵太守」

 この金泥の跋文は、嘉慶9年(1804)、伊秉綬50代の書であり、その内容は、「この漢の孔宙碑は、古くは京陵王氏から山陰の童氏に帰し、たまたま友人の銭泳(1759〜1844、字は立群、梅渓と号す)が訪れ、この帖を示し終日金石の交わりを楽しんだ。碑文の拓調の瑞々しく、古香の気があるので、簡単にその珍重されんことを記した」と。清朝の前期の書法家・鄭板橋を始めとして銭梅渓、伊秉綬の手を経てきた流伝もあれこれ想像される。
 最近、この帖を以前に買い求めたH書店の昭和46年の古書目録を入手した。最後方に中国拓本追加として30余件の碑銘が列記され、30番にこの『孔宙碑』が示され、2万5千円と記してあった。

伊藤 滋(木雞室)

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