『書史千字文』を読む 文/伊藤文生 〈002〉 嶽瀆闢地、星辰麗天。(その4)

 中国書道史を千字文にまとめた『書史千字文』。
 4字1句からなる原文を、伊藤文生氏(書文化研究会)が2句ずつ読み解いていきます。
 連載をはじめてお読みいただく方は、まずは「はしがき」からどうぞ。
『書史千字文』の全文(原文と現代語訳)をご覧になりたい方は、こちらへ。

中国書道史を千字文にまとめた『書史千字文』。4字1句からなる原文を、伊藤文生氏(書文化研究会)が2句ずつ読み解いていきます。連載をはじめてお読みいただく方は、まずは「はしがき」からどうぞ。『書史千字文』の全文(原文と現代語訳)をご覧になりたい方は、こちらへ。

〈002〉
嶽瀆闢地、星辰麗天。
地には山や川ができ、天には星がかがやいた。

「星辰麗天」に注目して、あれこれ調べてみました。前回の補足をしておきます。
 後漢のオウジュウ(27?~97?)は、『ロンコウ』説日篇第32に、『エキ』にいはくとして「日月星辰麗乎天」としています。また、江戸の儒者であるまつもとザン(1755~1834)は、『ヤクブン』巻2の「麗(=ベツタリトヒツツクコト)」の例文に、『易』の句として「日月星辰麗天(日月星辰ハ天ニク)」のように引用しています。

 この二人に限らず、漢学の素養ある昔の学者・文人というものは、『易経』などの基本的古典の原文はいちいち見たりせず、記憶によって書いていたらしい。「日月」を「日月星辰」としたり、「麗乎天」を「麗天」とするような例は普通に見られます。
「麗乎天」の「乎」は場所(「天」)を補う前置詞であると説明され、省略可能で「麗天」としても意味は同じ。「日月」を「日月星辰」としたのは、「日月」と同様に天空に見える物として自然に「星辰」が添えられたのでしょう。周興嗣の『千字文』でも「日月盈昃、辰宿列張」として、「日月」と「辰宿(=星辰)」とは自然に連想される語句です。
 陸島立誠も『後漢書』などの書物を見ながら「星辰麗天」の句を選んだわけではなく、何度も読んで記憶している『易経』の「日月麗乎天」をふまえつつ、自然に「星辰麗天」という4字句を思いついたのでしょう。引用したのであれば、注に言及があるはずです。

「嶽瀆闢地」については、陸島注に「張懐瓘文字論曰、日月星辰、天之文也。五嶽四瀆、地之文也」とあり、さらに「五嶽者、泰・華・嵩・衡・恒。四瀆者、江・淮・河・漢也」とあります。
 すでに(その1)で、

 ガクとは、タイ山・山・コウ山・コウ山・スウ山という五つの高山。
 トクとは、長江・黄河・ワイ水・セイ水という四つの大河。
 もっとも有名な山と川のこと、名山大川の総称として「嶽瀆」という。

と解説しておきました。陸島注と比べると少し違いますので、念のために確認しておきましょう。
 泰山は東嶽、華山は西嶽、衡山は南嶽、恒山は北嶽、嵩山は中嶽ともいい、東・西・南・北は、ふつうこの順に並べます。陸島注の「泰・華・嵩・衡・恒」も、東・西・中・南・北となっていて、東・西・南・北の順序は同じです。中嶽を始めに置くこともあり、また、東・南・西・北・中のように右回りに並べる例もあります。中嶽嵩山の配置が一定していないことからも推測できるように、古くは「五嶽」ではなく「四嶽」でした。しかし、「四嶽(四岳)」は山とは無関係の長官をいう語としても使われたためもあり、山といえば「五嶽」とする説が優勢になったと考えられます。
 なお、「恒」は「恆」とも書き、同じ意味の字として使われています。ところが、「セン」と「コウ」とは本来別の字として区別されます。しかし、「亘」は「コウ」とも読まれて、「コウ」は「コウ」と同じく「むかしから、永遠に」の意となっています。
「宣」は「セン」であるように、「亘」も「恒」も「セン」でよさそうなのに、そうはなっていません。本来は「亙・恆」と書くべきなのに「亘・恒」と書くことが普通となって、本来は「セン」と読む「亘・恒」も「コウ」と読むようになった、ということなのでしょう。字源から考えると間違いのようでも、多くの人がそのように書けば、それがその字の正しい使い方ということになります。そのような例は、ほかにもたくさんありそうです。そのあたりについては別の機会に、ということにして、五嶽と並ぶ四瀆について確認しておきましょう。

』という古い字書に、「江河淮済」を「四瀆」という、と定義されています。古来、有名な四つの川は「長江・黄河・ワイ水・セイ水」とされていました。山は「コウザン(愚公やまうつす)」という有名な話があるように、愚公などの人が動かさないかぎり、ひとりで移動するものではありません(実際には長い年月をかけた造山運動という地殻変動によって山はできるものでしょうが)。
 その一方、川の流れは自然と変化するものです。いつしか済水よりも漢水が有名となり、四瀆を「江・淮・河・漢」とする説も出て来た、ということのようです。
 中国の川に関する古典的な文献としては、第一にホクレキドウゲン(?~527)による『スイケイチュウ』があり、山については作者不明の『センガイキョウ』(「サンカイケイ」ともいう)が挙げられます。ほかに関連する史料がどれだけあるやら、文字によって伝えられている記録がどれほどあることか。全貌を知ることはそもそも不可能なことでしょう。

 空想はほどほどにして、実際のところ、陸島立誠はどのような文献を利用してこの『書史千字文』を書いたのでしょうか。その一つが、注に見える「張懐瓘文字論」です。これは、トウゲンソウ(685~762)のころの書論家として知られるチョウカイカンの論文です。文字どおり「文字」について論じた文で、『中国書論大系』第2巻(二玄社、1977年)に訳注があります。
 陸島注に引く「日月星辰、天之文也。五嶽四瀆、地之文也」の部分は、この原文のままでもだいたい分かります。しかし、「論」と称するだけあって、張懐瓘の「文字論」全体はなかなか難解な議論が展開されているようです。

 解釈はいろいろにできるものです。最後に、陸島注が言及しない「嶽瀆闢地」の「闢地」について簡単に触れておきましょう。「闢」の漢音は「ヘキ」、呉音は「ビャク」と説明され、「開闢」は「カイヘキ」ではなく「カイビャク」と読むことが常識とされています。ただし、古くは「カイヒャク」だったようです。少し調べてみると、異説がみつかることもあります。自分一人が知っていることは、ほんのわずかなものです。常識と思っていることも、絶対確実なことではありません。そんな当然のことを確認して、先へ進みましょう。

『書史千字文』版本より
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