疑問を持ちつつ、なんとなくそのままにしていることってありませんか?
游墨舎スタッフが耳にした素朴な(おバカな?)疑問(Q=Question)を、
その道のプロフェッショナルの方々にお尋ねし、
回答(A=Answer)をまとめていた以前の連載「書道に関するおバカな質問」を一新。
新シリーズでは、書家であり研究者でもある財前謙氏が、とことんガッツリお答えします。
疑問を持ちつつ、なんとなくそのままにしていることってありませんか? 游墨舎スタッフが耳にした素朴な(おバカな?)疑問(Q=Question)を、その道のプロフェッショナルの方々にお尋ねし、回答(A=Answer)をまとめていた以前の連載「書道に関するおバカな質問」を一新。新シリーズでは、書家であり研究者でもある財前謙氏が、とことんガッツリお答えします。
Q どちらに属した方が?
大学の書道学科に今年入学しました。学科の先輩から、「関東は碑学派、関西は帖学派」と教わりました。卒業後は実家のある名古屋に戻って、書道をやっていきたいと思っていますが、関東と関西の中間にある名古屋では、碑学派と帖学派のどちらに属した方がよいでしょうか?(19歳大学生、女性)
A 「碑学派」「帖学派」の仕分け自体が、絶対的なものでしょうか……?
碑学派と帖学派
二王(王羲之・王献之)をはじめとする筆跡を写し取り、これを刻して拓本にとり、帖に仕立てたものを法帖(ほうじょう)といいます。宋時代の淳化閣帖や清時代の三希堂帖などが特に有名です。
法帖を規範にして学ぶ書道(帖学派)に対し、考証学隆盛の影響から清代には実物重視の機運が高まり、また同時に北魏時代の書の拓本が多く紹介されたこともあって、現存する石碑から直接とった拓本を対象に書を学ぶ碑学派とよばれる人々がいます。
碑学派は篆書・隷書に優れた鄧石如(1743~1805)を開祖とし、その弟子 包世臣(1775~1855)がその方向性を推し進めました。包世臣の理論は、その著述『芸舟双楫』にまとめられています。さらに清末には康有為(1858~1927)が、『芸舟双楫』に倣って『広芸舟双楫』を著し、碑学が体系化されました。
そもそも碑学と帖学を対比し、碑学に理論的な体系をもたらしたのは、阮元(げんげん、1764〜1849)の「南北書派論」「北碑南帖論」という論文です。清朝の高級官僚で、考証学者としても知られた阮元は、漢時代の隷書や北魏の楷書が唐代の書にも影響を与えたことを論じ、書の来歴が王羲之中心の書に限らないことを提唱します。
南北朝時代の北朝、主に北魏で碑に刻されたもの、また漢・三国時代の石刻も含めて「北碑」とよび、その拓本を中心に書を学ぶことを「碑学」といいます。これに対し、鍾繇、王羲之の書の流れをくんで形成された書は南朝で貴ばれ、それが宋以降、法帖として普及したので「南帖」とよび、法帖を中心に書を学ぶことを「帖学」といいます。
いずれにせよ清朝後期は、まさに碑学が新しい書として流行した時代でした。書風でいえば、碑学派は野趣に富んだ豪快な筆致を、帖学派は晋唐の伝統を引き継いだ穏やかな風韻を重視するようになります。それは北と南の気候風土の違いも多分に影響していただろうと考えられます。書体では、碑学派は篆書・隷書・楷書を、帖学派は行書・草書を好む傾向があります。
関東と関西
さて日本では1868年の明治維新を経て、近代の幕開けとなりました。明治維新は長く続いた封建制度の否定で成立していました。それは政治制度に止まらず、明治の前期はなにごとにおいても新しいものを求める空気で満ち溢れていました。そのような中、明治13年(1880)に楊守敬(1839~1915)が駐日公使の招きで来日し、このときおびただしい数の漢魏碑の拓本を日本にもたらし、ここに近代日本の書道史は黎明を迎えたとされています。
楊守敬が伝えた漢魏碑の拓本を学ぶこと、つまり当時大陸で流行していた碑学が、日本でも新しい時代にふさわしい書としてとらえられました。このとき碑学に感銘し、書家たちの旗手の一人となるのが日下部鳴鶴で、そこからやがて近代書壇が形成されていきました。日下部鳴鶴はもともと彦根藩の武士でしたが、維新後は明治政府に書記官として仕えたので東京に住み、楊守敬は首都となった東京にやって来たので、碑学はどうしても東京を中心に、関東地方で盛んになっていきます。
そのため、関西は地理的にもその影響が関東よりも小さかったと考えられます。また関西の風土が関東と比べると伝統的なものを好む傾向が強いので、新しい傾向の碑学には抵抗感のある人が多かったことも想像されます。これがまず、「関東は碑学派、関西は帖学派」といわれる理由と考えられます。
さらにその後、まさに碑学の影響を多分に受けた西川春洞の弟子 豊道春海が大戦後の書壇をリードし、さらに書壇の指導的立場を春洞の子息 西川寧が引き継ぎ、こと西川寧の篆書、隷書、楷書の力強い書が日展などで注目され、これを慕う人々が多かったために、「関東は碑学派」という一つの括りができあがったと考えられます。
これに対し関西は、料理の味付けも淡白なものが好まれるように、関東のような「益荒男(ますらお)ぶり」よりも、「手弱女(たおやめ)ぶり」な書風が好まれました。また「かな」書道が伝統的に盛んだったことも、帖学を好む傾向に影響したと思われます。そして戦後の関西書壇では、関東の碑学指向に対抗し、明清時代の行書草書の長条幅を基盤とする書が隆盛したので、結果的に「関東は碑学派、関西は帖学派」というような言われ方が今でもされているようです。
ただし当然のことですが、関東も関西も、みんながみんな揃ってそれぞれ一つの方向を向いたわけではありません。顕著な一例を挙げるなら、西川寧の弟子で、質問者と同じ愛知県出身の青山杉雨は篆書、隷書もよくしましたが、その書風は野趣というよりモダンで、晩年には董其昌の行書を意識し、さらには日本的なものへの回帰指向もその作風に読み取ることができます。つまり、一つの地域、一つの団体が皆同じ方向を向いているわけではありません。
したがって、「関東は碑学派、関西は帖学派」なら、その中間に位置する名古屋はどちらかに属さなければいけないというようなご心配は、ご無用です。あなたの好みに従って、書を追求していくことが一番大事なことです。
阮元の「北碑南朝論」
そもそも中国の南北朝時代とは、東晋が滅んだ420年から隋が中国を統一する589年までの169年間を指すのが一般的です。が、それは清朝以来の版図に基づいています。南北朝時代に中国の主たる民族である漢族の王朝は、建康(現在の南京)に都を置いた南朝側でした。黄河以北の地域は異民族によって統治されていたので、南北朝時代の文化は南北朝文化とは言わず、三国時代が終わって以降の西晋、東晋に斉・宋・梁・陳の六王朝に続いた文化を総称して、「六朝文化」というのはよく知られている通りです。つまり、漢族ではない異民族統治の文化は長く中国文化史の中には数えられていませんでした。
では阮元はなぜ、わざわざ南北対等に評価して「北碑南朝論」を書いたのでしょうか。
阮元は「北碑南帖論」を執筆するにあたり、董其昌(1555~1636)の「南北宗論」を参考にしたことは間違いないでしょう。「南北宗論」は別名「尚南貶北論」とも言われる絵画論です。それは王維に始まる「南画」(文人画)の系統を尊び、「北画」と呼ばれた職業画家による絵画(院画)を貶めるものでした。それはもちろん、董其昌自身が南画の画家であったからに他なりません。絵画を南画と北画に分け、敵を作って論じるのは、極めて分かりやすい、また説得力のある論法であったことでしょう。
阮元は董其昌の「南北宗論」を下敷きにして書いたのでしょうが、董其昌と阮元の執筆意図には少し違いが見え隠れします。董其昌は自らが南画の画家であるから南画を賞揚し、それとは対照的な立場にある北画を非難しました。阮元は北碑を賞揚し、これを王羲之の書法と対等に扱おうとしていますが、自身は碑学派のようなものより、パーフェクトなほどに王羲之書法を身につけた人でした。それは科挙の難関を突破し、エリート官僚の道を歩んできた阮元にとっては当然のことです。王羲之書法を身につけ、正統派の字が書けないと、まず科挙に合格できないのが常識です。一説には、応募者の多い科挙では、まずその筆跡の優劣で解答内容を見る前に「足切り」がされたといわれるほどです。
ところが清朝は満州族の皇室を戴いて成立する国家でした。したがって、北方異民族の支配する国の高級官吏としては、漢族が信奉してやまない王羲之と対等に、かつて異民族が治めた北魏の時代に書かれた書を評価することで、わが身の安泰をはかった事情を察しないわけにはいきません。
ここでの問題は、そのような背景もあって書かれたと考えられる「北碑南帖論」の論と論法を、そのまま鵜呑みにしてそれを自分たちのモデルケースにしていいものかどうかということです。清朝後期に碑学派の書が一つの流行を見せたことは事実として、その発想をそのまま受け売りすることの危うさを、あらためて考えてみることも必要と思われます。

(東京国立博物館蔵)
図版出典:ColBase
近代日本書道史のウソ
また明治の初期に、漢魏の碑石拓本をおびただしい数携えて来たという楊守敬は、わざわざ中国書の紹介にやって来たのでしょうか?
10数年前、台北の故宮博物院で楊守敬の特別展があり、出かけてきました。しかしこの特別展で、楊守敬が日本の書道に影響を与えた事績を紹介する展示は目にしませんでした。
中国では一般に、楊守敬は地理学者で、蔵書家として知られています。楊守敬が駐日公使の随員として来日したのは、すでに本国には残っていない貴重な漢籍を日本で蒐集し、本国に持ち帰る目的があったといわれています。昨今、中国文物のオークションが日本で盛んなのによく似た構図です。楊守敬は携えてきたおびただしい数の拓本類を日本で販売し、その資金で当時日本国内にあった稀覯漢籍の蒐集にあたったので、当時東京の古書店から漢籍が消えたとも伝わっています。西洋にばかり目を向けた文明開化の風潮は、楊守敬にとって好都合であったにちがいありません。
そのような事情は想像だにせず、楊守敬を近代書道の黎明をもたらした救世主のように語る近代日本書道史には、いささか疑問の目を向けざるを得ません。楊守敬以降の近代日本書道史は、このとき碑学に心酔した人々によって作られた、我田引水の眉唾物と言えなくもないでしょう。碑学派、帖学派と対立させて、そのいずれかに自らの身をおくことで満足していた近代日本の書が、結局は中国書道の模倣に終始し、日本語を書く書道に向かわなかった元凶もここに認めずにはいられません。「かな書道」が、同時代の日本語は書かずに、平安時代の上代様の模倣に終始して平気でいられるのも、こんどは漢字書道との二律背反に身をおくだけで、書はいかにあるべきかを考えることを真剣にしてこなかった結果に他なりません。
したがって、「碑学派か、帖学派か」という仕分けは、一つの傾向を理解するには都合よいものですが、それに全幅の信頼を寄せてしまうのは、いかがなものでしょうか。もし「関東は碑学派、関西は帖学派」という構図が成立するとしたら、名古屋はもとより、北海道や九州・沖縄はどうなりますか。日本海側の各地域はどうなりますか。
東海道新幹線が開通して、すでに60年が過ぎています。東京・大阪間の日帰りは日常に行われて久しい時代です。「関東は碑学派、関西は帖学派」などは、まさに時代錯誤も甚だしい物言いでしかありません。名古屋も札幌も福岡も、そしてそのような大都市ではなくとも、田園のひろがる地方都市も、山間部の集落も、海浜の入り江にある漁村も、みな日本のどこかであり、関東と関西だけを対比して日本全体を語るのはいかがなものでしょう。
二律背反で、物事を対比して解釈しようとするのは私たち人間の常です。しかし、この世は二つの対立する構図ばかりではないはずです。碑学も大事。帖学も大事。その上で、さらに大事なのは、碑学派でもなければ帖学派でもない、あなた自身のかけがえのない書であるかどうかだと、私は思います。
財前 謙(ざいぜん・けん)
1963年、大分県生まれ。第1回「墨」評論賞大賞。白川静漢字教育賞特別賞。
『日本の金石文』(芸術新聞社)、『手書きのための漢字字典(第二版)』(明治書院)、
『字体のはなし ― 超「漢字論」』(明治書院) 等の著書がある。
NHKラジオ「私の日本語辞典」〈漢字の字体を考える〉全4回(2020年11月放送)は、
今もYouTubeで視聴できる。
団体に所属せず個人で活動を続ける。長年、早稲田大学で非常勤講師も務めている。
財前 謙(ざいぜん・けん)
1963年、大分県生まれ。第1回「墨」評論賞大賞。白川静漢字教育賞特別賞。『日本の金石文』(芸術新聞社)、『手書きのための漢字字典(第二版)』(明治書院)、『字体のはなし ― 超「漢字論」』(明治書院) 等の著書がある。NHKラジオ「私の日本語辞典」〈漢字の字体を考える〉全4回(2020年11月放送)は、今もYouTubeで視聴できる。団体に所属せず個人で活動を続ける。長年、早稲田大学で非常勤講師も務めている。