疑問を持ちつつ、なんとなくそのままにしていることってありませんか?
游墨舎スタッフが耳にした素朴な(おバカな?)疑問(Q=Question)を、
その道のプロフェッショナルの方々にお尋ねし、
回答(A=Answer)をまとめていた以前の連載「書道に関するおバカな質問」を一新。
新シリーズでは、書家であり研究者でもある財前謙氏が、とことんガッツリお答えします。
疑問を持ちつつ、なんとなくそのままにしていることってありませんか? 游墨舎スタッフが耳にした素朴な(おバカな?)疑問(Q=Question)を、その道のプロフェッショナルの方々にお尋ねし、回答(A=Answer)をまとめていた以前の連載「書道に関するおバカな質問」を一新。新シリーズでは、書家であり研究者でもある財前謙氏が、とことんガッツリお答えします。
Q 推し活タレントの名にちなむ雅号は不謹慎ですか?
毎朝、駅前のバス停で降りると、向かいの銀行から清々しい青年の笑顔が目に入り、弾む気分で勤め先に向かっています。そのポスターの青年は、「目黒蓮」。大ファンです。
ちょうど条幅を書くようになって、教室の先生からそろそろ雅号を考えておくよう言われていました。そこで「雅号は〈愛蓮〉でどうかな」と考えていますが、これでは不謹慎でしょうか?(50代女性・会社員)

A 言はでおもふぞ言ふにまされる。
だれにも遠慮することなく、雅号としてよいと思います。
それにしも、いま日本で一番の、旬の男。「水も滴るいい男」というのはこういうのをいうのでしょうか。
ただし、「愛蓮」の由来を口外しないのが肝心です。他人が知ってしまうと、きっと陰での謗りは免れません。「言はでおもふぞ言ふにまされる」──おそらく99.999…%、貴女が手を伸ばしても、彼は手の届かない存在です。だけど、そっとその気持ちを貴女の胸の中に収めておけば、二人だけの関係は成立するのです。
雅号の由来を聞かれたら、「毎年、蓮の花を見に行くのが楽しみで……」と説明しても、それは言っていいウソだと思います。ちなみに、北宋の儒学者 周敦頤には、「愛蓮説」という名文があり、蓮を君子に譬え、清廉の花と称えています。したがって「愛蓮」は、高潔を尊ぶことなのです。
号とは?
ではあらためて、雅号について整理してみましょう。
中国では古くから本名の外に、成人した時に字(あざな)をつける習慣がありました。王羲之の字は、逸少。王右軍と呼ばれるのは、王羲之が右軍将軍を務めたことにちなむ呼称で、号ではありません。同じく、顔真卿の字は清臣。顔魯公は「魯郡開国公」という爵位に因み、顔平原は「平原太守」という官職にちなむ呼称です。王羲之や顔真卿の号は伝わりません。
中国文学における別号(本名とは別に自らつけた名)について研究している柴田寿真先生によると、別号の基本は「隠逸」で、それは俗世を避け、人里に住むことの宣言であったそうです。分かりやすく言えば、世俗との決別であり、晋時代あたりから隠士に見られる習慣だそうです。
唐代に生きた李白は「青蓮居士」、白居易は「香山居士」が後の時代に号として解説されることもありますが、これは維摩居士に擬した在家仏教信者の謂いで、別号と言い得るかどうかは微妙なところです。北宋時代になると、隠逸の実践を伴わない士大夫たちが、わが作品世界であたかも世俗と関わりを断った者のようにふるまうために別号を使用するようになり、その嚆矢が欧陽脩(酔翁・六一居士)であり、蘇軾(東坡居士)がこれを確立したといいます。
そうすると、「東坡」は蘇軾自らが仕立てた蘇軾像と考えてよいのでしよう。別号は、表向きの名とは別のもう一人の自分を、詩歌管弦をはじめとする風雅の世界に遊ばせるための装置と考えてよさそうです。現代ならば会社員や公務員がその職務とは別に、ひそかに雅(みやび)な世界に耽溺しようと、本名を明かさずにもう一人の自分を演じるのが、雅号というものの本来なのでしょう。
夏目漱石の「漱石」は、「石に漱(くちすす)ぎ、流れに枕す」(『世説新語』)が出典であることはよく知られています。本来は隠者的な生活の象徴としての「流れに漱ぎ、石に枕す」ですが、間違って「石に漱ぎ、流れに枕す」と言ってしまい、その間違いを指摘されても改めなかったという故事から、頑固者の譬えとされています。
これは漱石自身に頑固者の自覚があったからに他なりません。その本名は、夏目金之助。小説家としての「漱石」、またその書画にも「漱石」と落款を入れますが、書簡では必ず「金之助」を使用しています。書簡に号を使用するのは誤り、とする考え方が長く浸透していたからでもありました。あくまでも夏目金之助は東京大学英文科講師であり、前時代には「稗史」といわれ、賤しい文章とされていた小説を書くに際しては、「漱石」の号を使い別けたわけです。
夏目漱石の盟友 正岡子規の本名は、正岡常規(つねのり)ですが、幼名は處之助(ところのすけ)、その後 升(のぼる)に改めたと言われています。「子規」はホトトギスのことで、肺病で吐血した自分を、鳴いて血を吐くとされたホトトギスに擬したものです。弟子の高浜虚子が牽引した俳句誌は「ホトトギス」で、近代俳句の主流になりました。号が別読みで近代日本文学史の大きな潮流となった事例です。
子規にはこれ以外にも、散文では「獺祭書屋主人」を、短歌や新体詩では「竹の里人」を号として使い分け、自身でも54の号を記録しています(随筆『筆まかせ』)。「野球」も号の一つで、幼名の「升」と「ノ・ボール(野・球)」とをかけた諧謔です。
夏目漱石や正岡子規の号を探ってみると、号は自らが遊び感覚でつけて良いもの、あるいはその遊び心が号の神髄であるように理解されます。戸籍名は、両親をはじめ自分以外の人によってつけられます。これに対して号は、自らがつけることのできる名です。マイナンバーカードに登録はできませんが、必要に応じて号をつけ、息苦しい世俗を他所に、心を遊ばせるというのが、号の基本形と言ってよいでしょう。
〈雅〉とは?
ところが何事も時間の経過にしたがって基本形から外れ、さまざまな現象を引き起こすものです。別号もまた例外ではありません。
♪京都にいるときゃ 忍と呼ばれたの
神戸じゃ渚と 名乗ったの……♪
昭和のヒット曲(「昔の名前で出ています」)で唄われた「忍」や「渚」は、源氏名とよばれる号の一種で、もちろん本名ではなかったことでしょう。源氏名は訳アリで、本名を隠すことに意味があります。次から次へと名を変えて生きていくしかない女の事情に即した源氏名ですが、尋ね人になったら、なかなか探し出すことができません。
♪横浜の酒場に 戻ったその日から
……昔の名前で 出ています♪
の、その「昔の名前」もまた源氏名だったはずです。
知人から、ある公募展に何年か本名で入選し、途中から号で出品したら、本名での入選実績が昇格ポイントに換算されず、数年分が無駄になったという話を聞いたことがあります。展覧会の事務局に照会しても認めてもらえなかったとか……。
これは規定の不備と事務方の怠慢だと思いますが、号がもつ不都合の一現象でしょう。もともと世を避ける隠逸に由来する号に、ポイント換算など不似合いなものということなのでしょう。水と油のような関係が同居することで起きたトラブルです。
歌舞伎役者の名も、もちろん本名ではありません。海老蔵が団十郎になり、菊之助が菊五郎になり、それが何代も続いているから、門外漢にはなかなか分かりにくいものです。しかし梨園ではこの襲名に意義を見出しています。また座元は、襲名興行と追善興行で稼ぐ伝統があります。襲名興行が大入りなご贔屓筋を持たない役者は、襲名そのものが許されません。
役者名そのものが一種の号でありながら、江戸時代の歌舞伎役者たちには、さらに俳名(はいみょう)という号がありました。初代、二代目、五代目の尾上菊五郎の俳名は共に、梅幸。その俳名を襲名した尾上梅幸が名優となり、俳名そのものが名跡になっていったような例もあります。同じく、三代目中村歌右衛門の俳名は芝翫、もしくは梅玉でしたが、こちらも中村芝翫、中村梅玉そのものが名跡となって今に続いています。実が伴えば、号も一流になることの例といってよいでしょう。
篆刻では「中村蘭台」の同名で、初世とその次男の二代目がともに優れた篆刻家としてその名を残しています。偉大な業績を残した号が、次の世代に引き継がれていく、これも日本の文化の特徴の一つですが、後代の我々からするとなかなか紛らわしく、区別のしづらい名前の文化でもあります。
本来は「隠逸」からはじまったはずの別号文化ですが、華道や茶道の流派によっては特別な漢字を門弟に与えて、免許取得の謝礼をシステム化している例も、よく耳にします。隠逸が俗世からの逃避であるならば、別号は俗世とは無関係な世界にわが身を転化させる装置だったはずですが、号にまで金銭が絡んでしまうと、別号の本来とは裏腹で、号そのものが俗の典型にもなりうるので注意が必要です。
その意味では、自分で何かの根拠をもって号をつけるというのが「みやび」であり、雅号というものにふさわしいように思えます。質問者の「愛蓮」は、人知れず心ときめく思いを号とした点で、師匠の名の一字をいただいて謝礼をしなければならないような号に比べたら、じつに「みやび」なことだと思います。雅号という以上は、「みやび」でありたいものです。
芸術家の魂
最後に、江戸時代の中期、同じ京の町に住んでいた与謝蕪村と池大雅の号について、少し記しておきたいと思います。
画家であり、俳人としてもよく知られる与謝蕪村ですが、その俳号「蕪村」は寛保4年(1744)、29歳のときに宇都宮で出した『歳旦帖』が初出とされています。江戸に出て学び、師の没後、東国を旅する初めての正月のことです。
もちろん「蕪村」は、「蕪大根の村」などという意味ではありません。一説には陶淵明「田園将蕪胡不帰」(帰去来辞)に由来するという説があります。「蕪」は、荒れるという意味の漢字です。
ところが天理大学附属天理図書館蔵の与謝蕪村画「王孫春草頌」には、
……題を探て、偶「春草」を得たり。……しきりにおもふ、王孫万里 今なをいづちにありや。
……王孫々々、君が遠遊に倣ふべからず。君が無情を学ぶべからず。
我帰る道いく筋ぞ春の艸
とあり、これは蕪村が『楚辞』の「王孫游兮不帰 春草生兮萋萋 ……山中兮不可以久留」(招隠士)を熟読していたことをうかがわせるものです。ただし、これだけではまだ「蕪村」には行き着きません。
唐時代の詩人 王維もまた『楚辞』を下敷きに、「春草明年緑 王孫帰不帰」(送別)や「随意春芳歇 王孫自可留」(山居秋暝)、また「山中人兮欲帰 ……忽山西兮夕陽 見東皐兮遠村 平蕪緑兮千里 眇惆悵兮思君」(送友人帰山歌二首)などと詠じています。王維は与謝蕪村にとって、その終焉の句で「冬鶯むかし王維が垣根かな」と詠じたほどの生涯の目標だった人物です。
見東皐兮遠村 平蕪緑兮千里
東皐の遠村を見やれば 平蕪の緑は千里なり
この一節こそ「蕪村」命名の典拠ではなかったかと、わたしは数年来思い続けています。大坂の郊外から江戸に出てしばらく暮らし、その後、江戸から結城へ、そして宇都宮へと北上した蕪村は、果てしなく広がる関東平野の草萌えに、王維の詩を通して知る大陸へと想いを馳せたのではないでしょうか。
かたや池大雅の「大雅」も、その由来や出典は明らかではありません。池大雅の号は他にも「待賈堂」「三岳道者」「霞樵」「九霞」などが知られています。
近刊予定の新著で自性禅寺(大分県中津市)蔵の隷書対「盤白石兮坐素月 乗松風兮鼓瑤琴」(白石を盤として素月に坐し 松風に乗じて瑤琴を鼓す)を扱ったため、この詩句の出典について詳細に調べる機会を得ました。この対句は李白の「鳴皋歌送岑徴君」(皋鳴の歌 岑徴君を送る)と題する詩の二句に相当するのですが、「乗松風兮鼓瑤琴」の部分は、李白の詩を集めた『李太白集』では「琴松風兮寂萬壑」(松風を琴として萬壑寂かなり)となっていて、語句に異同があります。異本があったのか、あるいは池大雅自身が李白の詩を基に、本歌取りの手法で作った句なのかは判然としません。
が、その異同はさておき、李白「鳴皋歌送岑徴君」を読んで、思わず反応してしまったのは、「盤白石兮坐素月 琴松風兮寂萬壑」部分の直前に、「掃梁園之群英 振大雅於東洛」(梁園の群英を掃ひ 大雅を東洛に振るふ)の二句があることでした。この二句を口語訳するなら、「同時代の詩人たちを一掃し、大いなる風雅を洛陽に起こそう」ということになるでしょうか。池大雅が南画や書にかけた情熱を、ここに見たような思いがしています。
もちろん「蕪村」も「大雅」も、その号の由来を確定するにはまだ不十分です。しかし私個人の心の中では、もうこれで十分なのです。古典の詩歌にわが心を遊ばせ、そこで出会った一節をわが名として使う──そんな憎らしいほどの芸術家としての魂を垣間見ることができただけで十分であり、これを論文にして論争するなどという野暮には足を踏み入れたいとは思いません。
雅号は文字通り「みやび」であることが大切です。この「みやび」は、あくまでも心の持ちようです。どのような状況であっても、心に余裕を持ち、世間とは心の中で距離を保って生きる生き方そのものであると思います。
「愛蓮」、いいですね。ただし、「目黒蓮」と口にしないことです。「人知れずこそ思ひ初めしか」ともいいます。心を遊ばせましょう。落款印をつくり、条幅に捺してみましょう。人知れず至高の「みやび」な気分を、味わってください。それが、なにより幸せというものなのだと思います。
財前 謙(ざいぜん・けん)
1963年、大分県生まれ。第1回「墨」評論賞大賞。白川静漢字教育賞特別賞。
『日本の金石文』(芸術新聞社)、『手書きのための漢字字典(第二版)』(明治書院)、
『字体のはなし ― 超「漢字論」』(明治書院) 等の著書がある。
NHKラジオ「私の日本語辞典」〈漢字の字体を考える〉全4回(2020年11月放送)は、
今もYouTubeで視聴できる。
団体に所属せず個人で活動を続ける。長年、早稲田大学で非常勤講師も務めている。
財前 謙(ざいぜん・けん)
1963年、大分県生まれ。第1回「墨」評論賞大賞。白川静漢字教育賞特別賞。『日本の金石文』(芸術新聞社)、『手書きのための漢字字典(第二版)』(明治書院)、『字体のはなし ― 超「漢字論」』(明治書院) 等の著書がある。NHKラジオ「私の日本語辞典」〈漢字の字体を考える〉全4回(2020年11月放送)は、今もYouTubeで視聴できる。団体に所属せず個人で活動を続ける。長年、早稲田大学で非常勤講師も務めている。