北川博邦(きたがわ・ひろくに)
昭和14(1939)年生まれ。國學院大學大学院博士課程日本史学専攻修了。文部省初等中等教育局教科書調査官(国語科書写・芸術科書道担当)を経て、國學院大學教授を務める。日本篆刻社を創弁し『篆刻』雑誌を編輯刊行。
編著に『清人篆隷字彙』(雄山閣出版、1978年)、『日本名跡大字典』(角川書店、1981年)、『和様字典』(二玄社、1988年)、『日本上代金石文字典』(雄山閣出版、1991年)、『章草大字典』(雄山閣出版、1994年)、『モノを言う落款』(二玄社、2008年)など。
第8回 離合〈文字をわかつ・あわす〉(三)
前回の袁康・呉平の籍貫姓名を記した離合は、その初期の者であるため、その巧思も稚拙で文辭も洗練を缺いているが、その次にあらわれた周易參同契(さんどうかい)の魏伯陽の離合はかなり良くできた者である。參同契には集解という注釋があるので、今それによって記してみよう。詩に「委時去害、依託丘山。循游寥廓、與鬼爲鄰。倫寂無聲、形化而仙。百世一下、遨游人閒。敷陳羽翮、東西南傾。湯遭阨際、水旱隔屏。柯葉萎黃、失其榮華。各相乘負、安穩長生」という。
委時去害、依託丘山。時に委せて害を去り、丘山に依託す。
循游寥廓、與鬼爲鄰。寥廓に循游し、鬼と鄰と爲す。
倫寂無聲、形化而仙。倫寂にして聲無く、形化して仙なり。
百世一下、遨游人閒。百世一下、人閒に遨游す。
敷陳羽翮、東西南傾。羽翮を敷陳し、東西南は傾く。
湯遭阨際、水旱隔屏。湯阨際に遭ひ、水旱して隔屏す。
柯葉萎黃、失其榮華。柯葉萎黃し、其の榮華を失ふ。
各相乘負、安穩長生。各の相ひ乘負し、安穩にして長生ならん。
集解の解は、委時去害の委を取り出し、 與鬼爲鄰であるから、委と鬼を合して魏字とする。集解はここで 依託丘山の一句を無視しているのは失考である。説文に「魏、髙なり。嵬に从ひ委の聲」と云う。徐鉉は「今人は山を省き、以て魏國の魏と爲す」という。巍が本字であり、魏はその俗體の別字である。漢隸は殆んど山に从い巍に作るが、山を省いた魏に作る例も少しはある。その山に从う者も、山を上につけるか、下につけるかのちがいがある(圖1、圖2)。
地名や姓氏の場合はどちらでもよいが國名の場合は山を上につけるのが例である。魏碑に見える巍字、特に魏が周邊の異民族に與えた蠻夷印の中の魏字は必ず山が上についている。だから、魏が倭の卑彌呼に與えたという「親魏倭王」の印が、もしあらわれたならば、魏の字は必ず山に从がった形に作っているであろう。
百世一下は、百から一を去り白、 遨游人閒の人と合して伯。 「湯遭阨際、水旱隔屏」については、「湯と阨遭隔と、其の水を去り、而して阨の旁を以てし、陽字なり」と廻りくどいことをいうが、ここは「敷陳羽翮、東西南傾」から、陳から東を去り阝、「湯遭阨際、水旱隔屏」であるから、湯から水を去り、阝と昜とを合して陽とする方が、よほどわかりやすかろう。
「柯葉萎黃、失其榮華」は柯から木を去り可。「各相乘負」は「乘は加なり。兩可相加へて哥と爲す。負は欠なり。哥旁に欠を附して歌と爲す」というが、この解は非である。もしこのように解せんとするならば、各相乘負をどのように訓(よ)めばよいのか。「各の相ひ乘じ負」とでも訓むのか。 「柯葉萎黃、失其榮華」は、可は一つであり、兩可ではない。兩可相加えたら、どんな字になるのか。それに、負には欠の義はあるが、いきなりとってつけたようなコジツケをするような解き方はあるまい。
そこで私は以下のように訓んで解釋した。「各の相ひ乘負す」と。各は別異の辭。おのおの、それぞれ。相はともに、たがひに、彼もこれも。乘負は乘りまた負ふ。つまり可字が一は上に在りて乘り、一は下に在りて負ふ。哥の字になるのである。哥は説文に、「聲なり、二可に从ふ。古文以て謌字と爲す」という。謌は歌と同字であり、段注に、漢書多く哥を用ひて歌と爲す、という。各相乘負は「哥」でよいのである。