北川博邦(きたがわ・ひろくに)
昭和14(1939)年生まれ。國學院大學大学院博士課程日本史学専攻修了。文部省初等中等教育局教科書調査官(国語科書写・芸術科書道担当)を経て、國學院大學教授を務める。日本篆刻社を創弁し『篆刻』雑誌を編輯刊行。
編著に『清人篆隷字彙』(雄山閣出版、1978年)、『日本名跡大字典』(角川書店、1981年)、『和様字典』(二玄社、1988年)、『日本上代金石文字典』(雄山閣出版、1991年)、『章草大字典』(雄山閣出版、1994年)、『モノを言う落款』(二玄社、2008年)など。
第5回 趙直の占夢(二)
蜀志楊洪傳注附何祗傳に「(祗)嘗て井中に桑を生ずる夢を見たれば、以て占夢の趙直に問ふ。直曰く、桑は井中の物に非ざれば、會(かなら)ず當に移植せらるべし。然れども桑字は四十の下に八なれば、君の壽は之を過ぎざらんと。祗笑ひて言ふ、之を得れば足れり」と。桑は井の中に生える物ではないから、かならず引き上げて移し植えられるはずである。つまり、祗は抜擢されて昇進するであろう。しかし桑の字は四つの十の下に八、四十八であるから、君の壽命もそれまであろうと。何祗は笑っていうには、それで十分だと。つまり、高位高官に至るであろうが、長壽は望めないというのである。桑字は四十の下に八とは、隷書・楷書では桑は桒に作るのが通例である。桒であれば十が三つ、木は十八、合わせて四十八となる。木を十八に見たてるのは、松を十八公と言うことからも知られよう。桑を桒に作るのは、楷書と活字とのちがいの見本のような例である。説文篆文は桑に作るが〈圖1〉、漢印の文字である繆篆はほぼ桒に近い形に作り〈圖2〉、隷書はすべて桒に作る〈圖3〉。
圖3 漢碑
楷書は顔真卿麻姑仙壇記、梁嘉運墓誌、褚遂良倪寛贊の三例しか桑に作る例を知らない〈圖4、圖5〉。行書になると褚の枯樹賦〈圖6〉は桒に、倪寛贊は桑に作るので、倪寛贊は褚書ではないことが知られ、孫過庭景福殿賦〈圖7〉も孫書ではない。
圖4 十が三つの「桒」
圖5 ヌが三つの「桑」
傳嵯峨天皇の李嶠詩〈圖8〉は嵯峨天皇の宸筆であるかどうか定めがたいが、ほぼ近い時代のものであると見てよいであろう。これには桒と桑との两様に作っている。桑字の初出の例は、今見る所では顔真卿であろう。いづれにせよ、唐代の中期以後のことである。後代になっても、桑は四十八と解することが、相字の通例となっているのである。