北川博邦(きたがわ・ひろくに)
昭和14(1939)年生まれ。國學院大學大学院博士課程日本史学専攻修了。文部省初等中等教育局教科書調査官(国語科書写・芸術科書道担当)を経て、國學院大學教授を務める。日本篆刻社を創弁し『篆刻』雑誌を編輯刊行。
編著に『清人篆隷字彙』(雄山閣出版、1978年)、『日本名跡大字典』(角川書店、1981年)、『和様字典』(二玄社、1988年)、『日本上代金石文字典』(雄山閣出版、1991年)、『章草大字典』(雄山閣出版、1994年)、『モノを言う落款』(二玄社、2008年)など。
第15回 離合と謎語(二)
(前回より続く)
大明寺壁は唐の馮翊子の桂苑叢談に「太保の令狐綯、出でて淮海に鎭せし日、支使班蒙と從事と、俱に大明寺の西廊に遊ぶ、忽ち前壁に題せるを睹るに云ふ、一人堂堂、兩曜重光、泉深尺一、點去氷旁、二人相連、不欠一邊、三梁四柱烈火燃、添却雙鉤兩日全と。諸賓皆な能く辨ずる莫し。獨り班支使曰く、一人は大字に非ずや。兩曜は日月、明字に非ずや。尺一は十一寸、寺字に非ずや。點去氷旁は水字。二人相連は天字、不欠一邊は下字、三梁四柱烈火燃は無字、添却雙鉤兩日全は比字。此れを以て之を觀るに、乃ち大明寺水天下無比に非ずやと。眾皆な恍然として曰く、黃絹の奇智も、亦た何ぞ異ならんやと。嗟嘆して日を彌(わた)れり。向の老僧曰く、頃年客の獨り游ぶ有り、之を題して去り、姓氏を言はず」という。
ちと餘計なことを。不欠一邊は不は一邊を欠(か)くと讀み、不の左拂いを取去って下となる。欠は音ケン。不足、足りないこと。「かく」と訓じて不可はあるまい。ただし、缺とは全く別の字であり、缺の略字でもなく、ケツの音もない。
三梁四柱は三本の横劃と四本の竪劃、この下に火(列火)をつけると無の字となる。無字をこの形に作るのは、隷書以来その例少なくはない。
雙鉤を添却すれば兩日全たからんとは、鉤は★。逆に日を二つ横に並べた形から二つの★を取去ると比字になる。
この謎語は遠近に流傳し、廣く知られることになったようである。唐代の中頃になると、陸羽の茶經、盧仝の茶歌などによって知られるように喫茶の風がかなり廣く行なわれるようになった。茶をたてるとなると、それに適した良い水を得ることが尤も肝要である。そのまま飲める水がほとんどないような彼の國では、何處の水が良いかというのは大問題であろう。そこで品水の議がおこり、天下第一泉、第二泉、第三泉などと稱するものがあちこちに出てくる。
大明寺の水は、陸羽の茶經では二十の中の第十二、張又新の煎茶水記では七の中の第五と評されている。そこで大明寺の水は天下第五泉と稱するようになったという。吾が邦には品水の議はそれほど盛んには行なわれなかった。國中どこの水でもそれなりに飲めるのであるから、その必要がなかったのは、まことに幸いであるといわねばなるまい。
東坡の硯蓋銘は「研猶有石、峴更無山、姜女既去、孟子不還」とは、研には石があり、峴には山が無い。石と見とを合して硯。姜女既に去りは姜から女を取去って●、孟子還らずは、孟の子はどこかに行ってしまった。孟から子を去って皿、●と皿とを合して盖となる。四句を合して硯蓋。東坡はこれを硯の蓋に刻して用いたという。