北川博邦(きたがわ・ひろくに)
昭和14(1939)年生まれ。國學院大學大学院博士課程日本史学専攻修了。文部省初等中等教育局教科書調査官(国語科書写・芸術科書道担当)を経て、國學院大學教授を務める。日本篆刻社を創弁し『篆刻』雑誌を編輯刊行。
編著に『清人篆隷字彙』(雄山閣出版、1978年)、『日本名跡大字典』(角川書店、1981年)、『和様字典』(二玄社、1988年)、『日本上代金石文字典』(雄山閣出版、1991年)、『章草大字典』(雄山閣出版、1994年)、『モノを言う落款』(二玄社、2008年)など。
第12回 印章謎と謎語入印
1980年代の中頃以後、中國ではどういうわけか、謎語に關する書物が續々と出版された。それらを見掛ける端から次々と買求め、數えたことはないが、恐らくは百冊を優に越えているであろう。その中での謎語の故事を論じた者は、徐渭の田水月を印に刻した者を印章謎と呼んでいるが、この呼稱は全く不適切である。強いていうならば、謎語印または謎語入印と呼ぶべきであろう。といっても「田水月」の三字は謎語として成り立たないことは前に述べた通りである。
謎語の種類はその謎底(答)の範圍によって分けられる。これを謎目という。一口に言ってしまえば、すべて「物」なのであるが、それではちと範圍が廣過ぎるので、山川草木、禽獸蟲魚、金石玉晶などの所謂る動物、植物、鑛物、さらにはこれもまた「物」ではあるのだが、動物鑛物とはちと撰を異にしているので、人名、地名、字、書、藥など、さらに細かい分類もある。印謎というのもその中の一であるが、これがいつの頃から始まったものかは定かではない。ごく近年になってから考え出された者であろう。1980・90年代の謎書にはいくらかの記載はあるが、いづれも稚拙であり、謎語の規範に合わない者も少なくないからである。印謎については、前に『墨』雜誌(芸術新聞社)に連載したことがあるので参看されたい。
さて「田水月」に立戻ろう。これは謎語を印に入れた者で、論者はこれに先立つ者として、宋の姜夔の「鷹揚周室、鳳儀虞廷」の八字を刻した印が有ったという。この八字、前四字は姜、後四字は夔を隱した、姜夔の姓名の謎語である。しかし私はまだこの印を見たことがない。
圖1の艸世木は葉潞園の自刻自用印。徐渭の「田水月」に仿った者であるが、これは名ではなく、姓を分離している。うまく三字に分離することはできたが、田水月と同様に語不成文であるから、謎語入印とするわけにはゆかない。
姓名の謎語を印に入れた者としては、童大年の朱顔黄耇を擧げねばなるまい。朱顔は紅顔というに同じく、童であり、黄耇は老人、つまり大年である。その印跋には、宋の姜白石に仿って作ったという(圖2)。
圖3の三印は壽石工の自刻自用。長年も老大も美意延年も、みな壽である。三つめの長年は、秦印に仿うと言っているのであるから、これは期せずして壽璽の印謎になっているのだが、そんなこと御當人は全く與り知らない。ということは、「印謎」という者がまだ成立していなかったことの證とすることができよう。
圖4の秦大夫は松の異稱。木公は松の離合。ともに錢松の自刻自用の印であるが、これはあまりにも見え透いていておもしろくもおかしくもない。もう一拈りほしい所である。
圖5は徐同柏、號は籀荘の用印。鐘鼎山林の四字が籀荘の謎語であると指摘したのは、このやつがれである。説は拙著『印を讀む』(東京堂出版、1988年)に就いて見られたい。
圖6は趙之謙が曹籀の爲に刻した印。日載東は、曹字の別體である。細かいことは、『篆刻』雜誌第五十七號(東京堂出版)の「印跋を讀む」を参看されたい。
以上述べたこと、さらにはその外のことも含めて、『篆刻』雜誌第七十五、七十六號に「姓名字號印の別構」という專輯をしているので、御用と御急ぎでない方は、ちと御目をお通し下されよ。