鑑定から鑑賞へ 人と書と歴史を探究する 文/増田 孝 第9回 松花堂昭乗① 「紹意」宛の手紙

増田 孝(ますだ・たかし)
1948年生まれ。東京教育大学卒業。博士(文学)。愛知文教大学教授、学長を経て、現在、愛知東邦大学客員教授。公益財団法人永青文庫評議員。テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」鑑定士。
主な著書に『光悦の手紙』(河出書房、1980年)、『茶人の書』(文献出版、1985年)、『書の真贋を推理する』(東京堂出版、2004年)、『古文書・手紙の読み方』(東京堂出版、2007年)、『書は語る 書と語る 武将・文人たちの手紙を読む』(風媒社、2010年)、『本阿弥光悦 人と芸術』(東京堂出版、2010年)、『イチからわかる 古文書の読み方・楽しみ方』(成美堂出版、2024年)、“Letters from Japan’s Sixteenth and Seventeenth Centuries”(Institute of East Asian Studies, University of California, Berkeley, 2022)など。

第9回 松花堂昭乗① 「紹意」宛の手紙

紹意宛 松花堂昭乗書状
(架蔵 17.2×104.0cm)

【解説】

 もとは 1枚の折紙(上下 2つ折り)に書かれていたものが、今の状態は切られて、後ろに継がれているために、あたかも巻紙に書かれたもののように長く見えるけれども、そうではない。まだこの時代には巻紙というものは存在しなかったと推定されるからである。手紙が巻紙に書かれるようになるのは江戸時代も後期になってからではないだろうか。
 ところで、寛永の三筆の一人の数えられる松花堂昭乗(1584~1639)については、その出自がほとんど分かっていない。昭乗はまた、手紙を中心にして膨大な数量の書が遺されている。書も画も得意としていた人で、たとえば、縦長の紙に書かれた水墨画の上部に和歌などを着賛したものなどが多く見られるのは、かつてはこうしたものが流行った証であろう。今手紙に見える書を大観しても、どれもがみなすでに様式的には完成したものばかりであって、それ以前の、つまり、様式的に未完成な書というものを私はこれまでに見た覚えがない。だから、昭乗の若年期の書の変化を辿ろうとしてもそれがじゅうぶんにはできない。
 たとえば手紙以外の書を含めて書風形成の姿については、慶長12年7月21日に書いた『御口事集』というのが石清水八幡宮にあるといわれているけれども(佐藤虎雄『松花堂昭乗』)、これは未見なので何ともいえないが、それから4年後、慶長16年(1611)、昭乗が28歳のときに書いた『弘法大師再遺告《さいゆいごう》』(注1)という聖教が京都神護寺にある。これが今のところ私が見た最若年期の昭乗の書ということになる。ここには雲英で嵯峨本と同種の文様を摺りだした美麗な装飾料紙を用いられていて、じつに巧みに大師流を操って書いている(ここに見る料紙については稿をあらためたい)。
 手紙では、差出所に「鐘樓《しゅろう》」と書かれる昭乗のもっとも若いころのものと見られる手紙も、これまでに何通か見つかっている(注2)。これらの書はどれもが今述べたとおり、すでに様式上は完成しているのである。だから、昭乗様式未完成期の書は、目下探索中なのである。
 ところで、昭乗は生涯に幾度か称号を変えている。石清水八幡宮の鐘楼坊にいたことは確かなようであって、次の時期に「式部卿」と名乗ることになる。しかし、いつ式部卿を名乗ったのかについては史料がなくはっきりしない。南禅寺金地院の以心崇伝(1569~1633)の『本光国師日記』慶長17年(1612)9月29日条に「八幡山之式部」と書かれる人がもし昭乗であるならば、すでにこの頃「式部」あるいは「式部卿」と称していたとしてよいことになる。
 昭乗が式部卿と称していたころの「滝本坊」の坊主は師の実乗である。ところで実乗は寛永4年(1627)3月23日、在坊中に亡くなった。昭乗44歳のときである。坊の後継者を決めぬまま実乗が亡くなったためか、そのあと昭乗が滝本坊を称するのにしばらく日時を要した様子がうかがえる。この頃の昭乗の手紙などなどからも、昭乗がいつから滝本坊と名乗ったかは明確にはつかむことができない。
 寛永4年頃からおよそ10年間、昭乗は滝本坊を称した。昭乗の手紙が多く遺されているのはこの頃である。ということは、この時期に、昭乗は生涯のなかで最も活躍したと見てよいのだろう。
 昭乗が滝本坊に住した後、同14年の12月中旬に坊を甥(兄中沼左京の子)乗淳に譲って隠居する。この年と考えられる永井直清宛の手紙(波多野文庫蔵)の中で「…当月中比(ごろ)いんきよ(隠居)仕やふ(藪)の内ニ堂を立て申候、名ヲハ松花堂と申候…」と述べていることからそれは判明する。
 隠居とは言っても、近所には泉もあり、おそらく昭乗は茶の湯三昧の老後を送ることを思い描いていたに相違ない。そして、しばらくは健康だったらしいことが差出所に「松花堂」とある手紙もかなり多く見つかっていることから推察される。

 さてこの手紙に戻ろう。近年、昭乗と尾張徳川家との関係を示す史料がいくつも見つかっている。この手紙もそのひとつである。差出所が式部卿となっているところから、寛永4年(1627)以前のものと考える。
 内容はおよそ次のとおりである。宛所に見える紹意(人物未詳)は、どうやら八幡近傍の人物らしい。息子(勝太郎)の尾張徳川家への仕官(就職)の仲介を頼まれたもののようである。しかし、昭乗が家老の竹腰正信(1591~1645)に直接頼んだにもかかわらず、結果は不首尾に終わったという。昭乗は、勝太郎の人物を理解してもらうために、その筆跡も見せたのだったが無駄だったとも書いている。「色々申しあげたのですが、今はご奉公人を召し抱えることはできないとのことで、同意がもらえなかった」という残念な報告である。
 この式部卿署名の手紙を書として眺めてみると、文字は小粒ながら、全体的に抑揚の少ない引き締まった強い線が多用されている。この期の特徴のひとつだと見てよかろう。言い方を変えれば、晩いころの書にあるゆったりと膨らみを持った柔らかさはこの書からはあまり感じられないのである。今年は「例年より早く神事が行われる」というので気がせいたのか、手紙の書風は、八幡に帰着した直後に急いで書いたなどという状況からも首肯できよう。
 ところで、1通にいくつかのことを報じようとする場合、現代の箇条書きに似た「一つ書き」がもっぱら用いられたものなのであるが、この手紙の場合は一つ書きではなく行を続けたまま「△」で区切られている。普通には、あまり手紙には見られない書き方である。このように、私信の書き方はかなり自由だったのかも知れない。
 また、文中の「舎人殿」というのは舎人源太左衛門経長(生没年不詳)という人のようである。この人は慶長6年(1601)3月から慶長15年9月まで清洲町奉行を、同15年9月から寛永16年10月まで名古屋町奉行を勤めた人のようである(松村冬樹氏のご教示による)。
 さて、昭乗が尾張徳川家と親しくしていたのには理由がある。それは徳川家康が石清水八幡宮を信仰していたことによる。源頼朝以来、戦の神様として家康はしばしばここを訪れ、社家である志水宗清の娘亀姫(相応院 社家田中長清の妹が竹腰正時に嫁して男子を生み、後に離婚して今度は志水宗清の娘として家康に召された)を側室とした。そして生まれたのが、御三家の筆頭尾張徳川義直(1600~50)だったことである。その乳兄弟が竹腰正信《たけのこしまさのぶ》である。
 一方、八幡宮において、実際に祈禱を執り行う社僧にとってもこれは大きな誇りだった。中でも、徳川家の贔屓にされた豊蔵坊は羽振りがよかった。当時、その豊蔵坊の主孝雄(信海 1626~88)は昭乗の書の弟子でもあった。
 またその一方でいくつもある社家のうち、田中家などは相応院の出自であることを嵩にかけ、権勢を振るうことがあり、一山(僧侶)側と神家《じんけ》(社家)側とは主導権を争うこともあった。こうした確執についてはまた稿をあらためたいと思う。

(注1)
『弘法大師再遺告』(『茶道文化研究』第4輯、今日庵文庫、平成10年、口絵)

(注2)
・光徳宛鐘樓昭乗書状(奈良高林寺蔵、特別展「光悦の書」146頁、大阪市立美術館、平成2年)
・宗智宛鐘樓昭乗書状(所蔵者不明、特別展「光悦の書」146頁、大阪市立美術館、平成2年)
・栗本宛鐘樓昭乗書状(前田育徳会蔵、特別展「光悦の書」150頁、大阪市立美術館、平成2年)

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