鑑定から鑑賞へ 人と書と歴史を探究する 文/増田 孝 第32回 元和期の光悦の書と鷹峯での生活(下)

増田 孝(ますだ・たかし)
1948年生まれ。東京教育大学卒業。博士(文学)。愛知文教大学教授、学長を経て、現在、愛知東邦大学客員教授。公益財団法人永青文庫評議員。テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」鑑定士。
主な著書に『光悦の手紙』(河出書房、1980年)、『茶人の書』(文献出版、1985年)、『書の真贋を推理する』(東京堂出版、2004年)、『古文書・手紙の読み方』(東京堂出版、2007年)、『書は語る 書と語る 武将・文人たちの手紙を読む』(風媒社、2010年)、『本阿弥光悦 人と芸術』(東京堂出版、2010年)、『イチからわかる 古文書の読み方・楽しみ方』(成美堂出版、2024年)、“Letters from Japan’s Sixteenth and Seventeenth Centuries”(Institute of East Asian Studies, University of California, Berkeley, 2022)など。

第32回 元和期の光悦の書と鷹峯での生活(下)

 光悦が鷹峯の地を拝領したのは元和元年(1615)のことだった(『本阿弥次郎左衛門家伝』)。光悦58歳のときである。「慶長」から「元和」に年号が改まっておよそ10年の間、目立った戦のないこの時代は、のちに〈元和偃(えん)武〉とよばれる。
 じつはこの前年の慶長19年(1614)に、光悦の周辺にはいくつかの出来事があった。5月には、光悦と関係の深い人物が幾人か鬼籍に入っている。加賀藩第二代藩主前田利長や同藩家老中川宗半らである。
 この年の冬10月には徳川家康による大坂城攻めの火蓋が切られ、豊臣の城は焼け落ちた。この地は広く戦禍を蒙ったのである。豊臣秀頼とその母淀ら豊臣氏一族の滅亡は、都の人々にも大きな衝撃を与えた。いわゆる〈大坂冬夏の陣〉である。
 このとき大坂方との密通の嫌疑を受けた古田織部は戦の直後に何の弁明もせず自刃。また、秀頼の生母淀殿の叔父という立場にあった織田有楽は、豊臣氏らとともに大坂城にいながら、駿府の家康に情報をもたらしていた。有楽は戦のさなかに城を去り、これを機に家督を頼長(道八)に譲り、東山に隠居をしてしまう。織部、有楽の二人はともに光悦の茶の師だったことはすでに記した。そしてこの年、光悦は家康から洛北鷹峯の地を拝領することになる。
 鷹峯賜地の経緯《いきさつ》については史料もなく、詳細は不明だけれども、光悦がここを隠棲の地としたであろう状況は手紙からも首肯される。光悦はもともと熱烈な日蓮宗の信者であり、ここを檀林(日蓮僧の養成機関)としたことは確かである。これについては後述したい。
 今、鷹峯の地割りを書いた古図の写本は複数伝存している。この図の制作意図など、現在は研究者の間でも意見が分かれている。そして、記される人名についても未解明の部分が少なくない。大正7年(1918)に、この集落が「芸術郷」だったとする仮説が出され、その説は今なお完全に消えてはいないようである。

 もともと洛北鷹峯の地は、京から丹波へ抜ける交通の要所でありながら、追い剥ぎの出るような治安の悪い所でもあった。そのころ本阿弥家の本拠は洛中の本阿弥辻子(京都市上京区)である。光悦は鷹峯の地を手紙の中で「辺土住居」(図1)などとも言っている。拝領当初、光悦はこの地と鷹峯とを往復していた時期があったのではないかとも思える。理由としては、差出所に「従鷹峯山」と書いた手紙(図2)が複数存在し、ほかにも、たとえば「明朝、(上林)竹庵老に鷹峯でお茶をさし上げるので、相伴されたい」(第一法規出版『光悦』111号文書)、「二十六日の昼に鷹峯へお出で下さい。明寿、明真もお出でです」(同書112号文書)などと記した手紙が散見するからである。こうした手紙は洛中の本拠と鷹峯との両方で茶事をしていたことが前提であるようにも思われ、これらの手紙は、光悦が双方の地を往復していた時期に書かれた可能性、もしくは光悦が鷹峯に居を移して間もないころのものである可能性も考えられよう。

図1 本阿弥光悦書状
(法量不詳)
図版出典:『和の美』(思文閣 2009年12月)
図2 本阿弥光悦書状
(個人蔵 16.3×33.2cm)

 そうした時期を経たのち、光悦はここに定住することに決めたのであろう。では、洛中から鷹峯の地に居を移すことにいかなる意味があったのか等、具体的にそれを知ることのできる光悦の手紙は管見に入らなかった。全く想像の域を出ないけれど、光悦自身の年齢や自身の健康への思いが心の底にはあったと推定して大過あるまい。
 これまで見てきたとおり、光悦は本阿弥の別家に生まれながらも、一族を代表する長老としての重要な立場にあることが長らく続いた。光悦個人としては、そうした立場にあったので、刀剣に関する家職「本阿弥三の事(目利《めきき》、磨礪《とぎ》、浄拭《ぬぐい》)」そのものとは、ある距離を置きつつ、もっぱら趣味人としての生き方を貫くことができたのである。現存する数多くの手紙の中にも刀剣の事に自身が触れた手紙はほとんど管見に入らなかったのも、光悦が刀剣のことにあまり関心がなかったと判断される理由である。

 かつては齢《よわい》40歳を越えれば老人の域に入ったわけで、鷹峯賜地のころ、みずからの58歳という年齢や健康状態などを慮《おもんぱか》った光悦が、人生の節目としての隠居を考えたとしてもあながち不思議ではないと私は考える。
 やや話が脇へそれるかも知れないが、そのことに関連して思いうかぶのは、慶長10年(1605)「一月十四日」付で「宗□老」に宛てた光悦の手紙である(図3)。宛所の「□」の上には「切封」がかかっていたために文字の大部分が空白となっているけれど、今その残画からは、これは「於」であろうと推定される。

図3 本阿弥光悦書状
(根津美術館 19.5×92.1cm)
図版出典:拙著『光悦の手紙』(1980年 河出書房新社)

 その手紙の中で、「存外としより驚申候、四十八ニ成申候」と、自分が年老いたことを述べている。親しい間でのやりとりとはいえ、本音以外の何物でもないだろう。これが鷹峯に移るひと昔前の光悦の言であることが面白い。
 ところで、宛所の「宗於」なる人物。光悦周辺には蒔絵師の「五十嵐宗於」なる人物がいる。光悦の孫娘妙久(寛文3年8月16日没年齢不詳)が嫁いだ五十嵐孫兵衛の父が五十嵐宗於その人で、彼は慶長18年(1613)8月19日に卒している(『本法寺教行院過去帳』)。これらの点からして、この書状は彼に宛てていることがじゅうぶんに考えられるのである。光悦は手紙の中に、あまり心情的なことを吐露していないだけに、このつぶやきは興味深く思われる。
 これとはまた別に、書風からおそらく光悦の晩年(寛永10年を過ぎたころか)に書かれたものかと判断される「工庵(秋葉貢庵カ)」宛の手紙の中で「我等いまた受命ニ候、達者可御心易候(まだ生きていて達者なのでご安心を)」と書いているなど(図4)、健康状態や年齢に関して触れているものもある。
 光悦にとっての鷹峯移住とは、おそらく長い間の一族の代表者的立場からの解放だったのかも知れず、自身、転変する世の中において、残る人生をいかに生きるかを考え抜いた上での選択だったのだろう。

図4 本阿弥光悦書状
(個人蔵 33.9×51.0cm)
図版出典:拙著『本阿弥光悦─人と芸術─』(2010年 東京堂出版)

 これまでたびたび触れてきたように、光悦にとって人生最大の楽しみは茶湯であり、そして書活動(揮毫)だった。はからずも病の後遺症で、不自由な身体となったために、運動面では大きな制約を受け、そうした状況下でなお、いっそう茶事を楽しむために、このころ始めたのが茶碗づくりだったのではなかったかと私は考えている。光悦が作陶を始めた時期を知る明確な史料はないけれども、病気以前の書の手紙の中には焼物のことに触れたものは管見に入らなかった。そうしたことから、光悦が陶芸に親しんだのは罹患後、すなわち慶長末年以降だったろうと考えている。光悦の作陶については稿を改めたいと思う。
 元和期に始めた光悦の鷹峯での生活についての実相を知るためには、どうしても灰屋紹益の『にきはひ草』を読む必要がある。少し長いけれども、まず原文を紹介し、その現代語訳を付けて今回の結びとしたい。

 都のいぬゐにあたりて、たかゝミねと云山あり。其ふもとを光悦に給りてけり。我住所として一宇を立、茶立所なとしつらひ、都にハまたしらさる初雪の朝たハ心おもしろけれハ、寒《さむ》さを忘《わす》れ、ミつから水くミ、かましかけ、程なくにえ音づるゝもいとゝさひしく、ミやこの方打なかめ、問《とひ》くる人もかなと、松の梢《こすゑ》の雪ハ朝《あした》の風にふきはらひて、木の下かけにしハしのこるをおしむ。ひかしハ賀茂《も》の山。松か崎《さき》なとハいとちかく、松と竹とのけちめミゆるほとにて、ひえの山ハ、こなたの山より上に、ふもとまてみえていとゝ高く、一(乗)寺の里、白川まてもふもとゝ見ゆ。雪の比ならねと、有明の月はいたゝきの山のはにのこりて、明かた近きほとに、をちかたハ霧《きり》ふかく、ふもとの山ハミなかくれて、ひえの山ハ水海《ミつうミ》のあなたにやと打なかめらるゝ。よこ雲たな引いてゝ、たか別路《わかれぢ》のなかめならんと老の心をなくさむ。京のかたハたつミにあたりていとめてたく、朝夕のけふりにきハヽし。都のそら打こして、をとハ山、いなり山、ふかくさ山、ふしミの里、空はるはると遠かたに高山あり。かすか山、みかさ山にやとをしハかりなかめやる。山々四方《よも》にかきりなくそ見えわたる。かゝるすまひの軒《のき》ばの松になれて、としひさしかりし。世の中のわさとてハ一こともしらす。心にもなし。我ハさこそすべけれと、こしらへたるにハ更になくて生れ得《え》たる心のいさきよきにてそ有ける。(『にきはひ草』(下)『近世文学資料類従』144~147ページによる)

 現代語訳すると次のようになる。

 都の北西部に鷹峯という山がある。そのふもとを光悦が拝領した。そこをみずからの住処(すみか)とし、茶室などを設(しつら)え、洛中にはまだ降り始めない初雪の朝は、興を覚えて、寒さを忘れて自ら水を汲み、釜の支度をし、間もなく湯の沸く音もますます淋しく、都の方を眺めては尋ねて来る人がいないかしらと、松の梢に残る雪は朝風に吹き払われて、木のもとに暫く残るのを惜しむのだった。
 東は賀茂の山。松ヶ崎などはたいそう近く、松と竹との違いまで見えて、比叡山は手前の山より上の方に、麓まで見えてたいそう高く、一乗寺の里や白川までも麓に見える。
 雪の季節ではないけれど、有明の月は山頂に残り、明け方近くには、遠くの方は霧深く、麓の山はみな隠れて、比叡の山は湖の彼方のように眺められる。
 横雲がたなびいて、「これは誰の別れ路の眺めなのだろう」と老いの心を慰めたりもする。
 洛中は南東の方角にあたってたいそうりっぱで、朝夕の煙が見え、庶民の賑わいがうかがえる。都の空の向こうは、音羽山、稲荷山、深草の里、伏見の里。空の彼方に高い山がある。あれは春日山、三笠山であろうと推しはかりながら眺めやる。四方の山は限りなく見渡せる。
 このような住居の軒端の松に住み慣れて、年久しくなった。俗世間のことはひとつも知らないし、知ろうとも思わない。自分はそのように生きようと拵えているのではまったくなく、生まれながらの心の潔さなのである。

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