鑑定から鑑賞へ 人と書と歴史を探究する 文/増田 孝 第18回 平野五岳と豆腐屋五岳

増田 孝(ますだ・たかし)
1948年生まれ。東京教育大学卒業。博士(文学)。愛知文教大学教授、学長を経て、現在、愛知東邦大学客員教授。公益財団法人永青文庫評議員。テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」鑑定士。
主な著書に『光悦の手紙』(河出書房、1980年)、『茶人の書』(文献出版、1985年)、『書の真贋を推理する』(東京堂出版、2004年)、『古文書・手紙の読み方』(東京堂出版、2007年)、『書は語る 書と語る 武将・文人たちの手紙を読む』(風媒社、2010年)、『本阿弥光悦 人と芸術』(東京堂出版、2010年)、『イチからわかる 古文書の読み方・楽しみ方』(成美堂出版、2024年)、“Letters from Japan’s Sixteenth and Seventeenth Centuries”(Institute of East Asian Studies, University of California, Berkeley, 2022)など。

第18回 平野五岳と豆腐屋五岳

 幕末から明治にかけて豊後国(大分県)で活躍した画家で、詩も能くした平野五岳という人がいる。真宗大谷派の僧侶で、今ではもうほとんど忘れられているように思われる。かつては全国で流行ったようで、遺墨もたいへんに多い。しかし、今は五岳に関心を持つ人もそう多くないであろう。かく言う私も、これから述べるようなことがきっかけで、五岳について調べることになり、それを機にかつての書画文化のありようまでも考えてみることになった。

図1 平野五岳の水墨山水図
(架蔵 98.5×21.1cm)
図2 平野五岳の手紙
(架蔵 15.0×35.8cm)

 これは、東京のある古書店でたまたま見つけた五岳の水墨画(図1)である。もし絵だけだったら、この時、たいした関心は持たなかったにちがいない。ところが、その箱の中には次のような五岳の手紙(図2)が遺されていた。宛所は「村上様」。大意はおよそ次のようなもの。
 「突然申し上げます。島木田より、この画を持参しましたところ、これは「偽物」だと仰せられた由、ご返却に相成り、同人はたいへんに嘆いております……」という書き出しである。どうやら、平野五岳の絵を島木田という者が届けたところ、届け先の「村上」なる人から、これは「偽物」だと言われて受け取りを拒まれた。戻って、そのことを五岳に訴えてきたのだったようである。島木田の無念さ、そして五岳自身も困惑したにちがいない。そこで五岳は、あらためて村上に宛ててこの手紙を書いて持たせたということがわかる。
 五岳は言う、「失敬ながら一筆書きます。この絵は私が描いたものに間違いありません。私は今、老いぼれて、その上病気持ちですから、元来下手な上にこのごろは特に拙くなりまして、偽筆家の方が却って巧みです。どうか「木田」(島木田)の気持を察してやって、疑念を晴らして下さい」と。読んでのとおり、この手紙の調子は静かで、かつ淡々として、感情はむしろ抑えられている。しかしながらこの手紙を書いている五岳の気持を私たちは察しなければならないであろう。

 平野五岳(1809~93)は文化六年に豊後国(大分県)日田に生まれた。名は岳、字は五岳、号も五岳。別号を古竹園といった。日田の漢詩人広瀬淡窓(1782~1856)の門に入り、詩を学び、30歳のころ田能村竹田《たのむらちくでん》(1777~1835)の絵に感動して画道に研鑽したといわれる。日根対山《ひねたいざん》(1813~69)や阿波出身の画家前田暢堂《まえだちょうどう》(1817~78)とも交わりがあり、一家をなしたといわれている。詩書画三絶をもって称されたというから、当時の文人の代表格といってもよい。
 第4代内閣総理大臣を務めた松方正義(1835~1924)が日田県知事として在任中に五岳を称揚したこと、大久保利通(1830~78)や木戸孝允(1833~77)らが平野五岳を重んじたことなどにより、ひろく親しまれることになったという。ということは、偽物も横行したことが十分に考えられる。
 先述したように、この手紙は五岳の絵の箱の中にあった。まさにこの絵が「村上」から偽筆と疑われたそのものにちがいない。

図3 左上部にある自賛

 ついでながら、絵の左上部にある自賛(図3)も読んでおこう。

 乱山堆裏掩柴門繞屋松泉聞不喧誰使老僧高臥穏白雲一片亦天恩 癸未秋日作于古中園岳

 大意はおよそ次のようなものだろう。

 不揃いの山並みに埋もれた柴の戸。庵をめぐって松籟や泉の音が聞こえるが、うるさいとは感じない。誰が老僧をして安眠させているのだろう。白雲がひとひら浮かんでいるのもまた天の恵みだ。

 まさに、山中に隠棲する文人の詩境である。
 「癸未」は明治16年(1883)で、この年、五岳は75歳。書という観点から見ると、この賛はいかにも自然で、真筆であることに疑いは持たれないし、手紙の筆跡とも一致する。
 蛇足ながら言い添えておくと、着賛された絵の場合は、絵と賛との両方から鑑《み》なければならないのである。絵、賛ともに真筆であれば問題はない。しかし、たとえ絵が真物であっても、すべて、賛までもがよいとは限らないのである。なぜかといえば、もともと賛がないものに対し(商品価値を高めるためにか)、後からそれが書き加えられることもある。
 しかし、その逆は存在しないであろう。つまり、贋作の絵に真筆の賛が書かれることはありえないと考える。双方ともに真筆であれば全く問題ないのであって、賛の書が確かなものであるなら、絵も真筆である場合が多い。一般的にも、私はこれを絵と賛との関係性として捉えてよいのではないかと考える。しかし、あらゆる可能性を想定しなくてはならない。画賛としてではなく、詩とか偈だけしかないものに、あとから誰かが絵を描き込んだり、貼りついだりしたものもよくある。だからあらゆる偽物はあり得る。用心にこしたことはない。
 ところで、箱の中に保存されていた五岳の手紙は、おそらく依頼人の「村上」がこれを保存しておいたに違いない。なお、箱の蓋表には「五岳上人水墨山水図」、そして蓋裏には「平野五岳上人九州の人明治廿六年歿年八十三此幅明治十六年七十一歳之作也 竹軒題」と由来が書かれている。この箱書を書いた筆者は不明である。

 さて、平野五岳には、『五岳詩鈔』(大正8年4月刊か)というのが編まれてあり、そこには前述の七言絶句も収載されている。この本所収の「五岳上人伝」中には次の興味深い逸話が載っている。

 ……当時鎮西談風流韻事者。先屈指于五岳。其寸縑尺紙。至今人猶尊重之。是以其書画贋物甚多。当時願正寺門前。有一鬻豆腐者。筆蹟能擬五岳。人呼称豆腐屋五岳。上人不啻知此事。更請押印則亦復不拒。頗似沈啓南董玄宰。故坊間所鬻。玉石混淆。鑑別太難。……

 現代語に直してみよう。

 その頃、九州に文人として著名な人の筆頭に五岳は数えられて、その小さな絹や紙に書かれたものは今なお尊ばれているから、書画に贋作がとても多い。その頃、願正寺《がんじょうじ》(五岳の住した専念寺はその前房)の門前にひとりの豆腐屋があり、筆蹟は五岳をよく摸していたので、人呼んで豆腐屋五岳。五岳自身もこのことを知っていたばかりか、印を押すことを請われれば拒むことは無かった。その絵はたいへんに沈啓南や董玄宰に似ている。だから、市中で売られているものは玉石混淆で、真贋鑑定がとてもむつかしい。……

 さきの手紙の話に戻ろう。おそらく前記のような状況下で、依頼者村上は島木田の持参した五岳の画に疑念を持ったのかもしれない。豆腐屋五岳の逸話が真実ならば、偽物と知りながら捺印していた五岳自身にも責任の一半はある。それゆえ五岳の書いた先ほどの手紙の調子も、存外抑え気味なのかとも解せられる。しかしながら、結果としてこの手紙の存在は画に保証を与えたことにもなる。村上は自らの不明を恥じたにはちがいないけれど、手紙の持つ効力の方を優先させて保存しておいたにちがいない。
 あらためてこの水墨画と手紙とを較べてみると、両者は紛れもなく同筆である。

 いかに五岳の書画が玉石混淆であるにしても、それらはさまざまで、その中のいずれが豆腐屋の所行かとなると、それを見出すのは容易ではなかろう。そこで、たとえば次の書を見ていただきたい(図4)。これは画箋紙半折大の作品の落款部分である。ここからだけでも書のだらしなさは明瞭なので、私の鑑るところ、不合格としたい一品(しかし、この程度でもまだマシな方である)だが、印影を見るかぎり、実に精良で、しかもきちんと捺されている。これは真印(概して贋作の印は美しくないことが多い)と判断される。そこで、想像を逞しくすれば、こうしたものの中に、豆腐屋五岳の作品があるのではないか。

図4 豆腐屋五岳の可能性がある書と真印と思われる印

 思えば現今のような高度な複製印刷技術の存在しなかった時代。かつての住宅には床の間があったから、そこに掛ける軸は必需品といえる。五岳の例に限ったことではない。また、現代と違い、書画を巧みにコピーできた人は少なくなかったはずである。むろん技を誇ろうとする模作者には悪意は希薄かもしれない。豆腐屋五岳の場合のように、五岳自身も公認する贋作者の仕事というものを、あまり穿鑿することもせず、容認され得る社会。これがその時代だったのではないだろうか。かつて存在した寛容さのようなものを私たちは頭に入れておくべきで、おそらく、それはもしかすると、長い間続いたであろう文化だったのかもしれない。

  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次