鑑定から鑑賞へ 人と書と歴史を探究する 文/増田 孝 第12回 烏丸光広② 源氏物語についての手紙

増田 孝(ますだ・たかし)
1948年生まれ。東京教育大学卒業。博士(文学)。愛知文教大学教授、学長を経て、現在、愛知東邦大学客員教授。公益財団法人永青文庫評議員。テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」鑑定士。
主な著書に『光悦の手紙』(1980年河出書房)、『茶人の書』(1985年文献出版)、『書の真贋を推理する』(2004年東京堂出版)、『古文書・手紙の読み方』(2007年東京堂出版)、『書は語る 書と語る-武将・文人たちの手紙を読む-』(2010年風媒社)、『本阿弥光悦-人と芸術』(2010年東京堂出版)、“Letters from Japan’s Sixteenth and Seventeenth Centuries”(Institute of East Asian Studies, University of California, Berkeley, 2022)など。

第12回 烏丸光広② 源氏物語についての手紙

図1
烏丸光広 源氏物語についての手紙
(架蔵 36.5×59.0cm)

【解説】

 この手紙(図1)の宛所《あてどころ》は御小性《こしょう》衆中となっている。小性(小姓)とは寺院や貴人に仕える若い男子で、雑用をはたした。これは彼に宛てて主人に披露してもらう手紙なのである。「渡御」すなわち後水尾天皇の渡御のことが書かれているから、宛所はもしかすると鹿苑《ろくおん》寺の鳳林承章《ほうりんしょうしょう》あたりかと私は想像している。もちろん確証はない。この手紙の大意は、源氏物語の鑑定を依頼された回答である。この源氏物語は複数の手によるものだが、写本としてはまともなものであろうと答えているわけで、国文学に造詣の深かった光広を恃んでの依頼なのである。執筆時期ははっきりしない。光広の書としてはわりとゆっくりとした運筆で、全体的、線も重厚なもののようで、ここからは光広によくある颯爽たる速さは感じられず、どっしりとした書である。

 烏丸光広(1579~1638)は天正7年に准大臣烏丸光宣《みつのぶ》の子として生まれた。弁官から蔵人頭《くろうどのとう》を経て参議にのぼったのが慶長11年(1606)。そして、同13年に従三位《じゅさんみ》、14年に左大弁《さだいべん》となった。この年 7月にはいわゆる猪熊《いのくま》事件が発覚。連坐した光広は官位を止められ、閉居する。ところがその後間もない11月には光広と徳大寺実久とのふたりは罪を許されている。
 この事件は、ときの後陽成《ごようぜい》天皇の逆鱗に触れたため、収拾までに相当な時日を要し、ついには京都での決着がつかず、徳川家康の介入、決済に至ったことから、世間が大いに騒いだのである。しかしながら、これに類した醜聞や、その結果としての勅勘などの事例はすでに室町時代から少なからずあったわけであり、いわばことを起こした〈傾《かぶ》き者〉の存在は、戦国から解放された時期の公家社会内部の綱紀の緩み、風紀の乱れなどに起因するものであり、それ自体さほど珍しいこととは言えなかった。ただこのたびは、後陽成の寵愛する官女がその中心にいたこと、激怒する後陽成と、事態の沈静化をはかろうとする天皇の生母新上東門院晴子(勧修寺氏)との、かねてからの不和などが災いして、宮廷内部での決着がつかなくなってしまったことである。
 私にとって興味深く感じられるのは、この一件の結果である。すなわち、烏丸光広と徳大寺実久のふたりの処遇である。首謀者猪熊教利らは極刑に処せられ、ほとんどの公卿、女官らは配流の身となったけれど、ふたりだけは微罪で済んだことである。光広は翌々年 4月、後陽成天皇の譲位直後に罪を許され、参議、左大弁に復して、さらにその翌17年には権中納言《ごんのちゅうなごん》にのぼっているのである。

 さてそのことを考える上で、烏丸光広と徳川家との関係の親密さを知るために、光広の頻繁な江戸下向について触れておかねばならない。
 光広が初めて駿府へ下向したのは慶長14年(1609)のことだった(『時慶卿記』10月24日条)。これは猪熊事件での罪の宥免を願うための下向らしい。そののち罪を許されてから、同18年8月にも江戸へ下向している(『黄葉和歌集』(以下『黄葉』)、『あづまの道の記』)。
 ところで光広の生まれた烏丸家というのは日野家の別れである。日野家は古くから室町将軍の御台所《みだいどころ》(正室)を出す家柄であって(日野富子が有名)、公卿の家格としては名家に属する。その日野家出身の光広が家康から特に親しみを持たれたのも故なしと言えまい。当時、武家伝奏《ぶけてんそう》(京都の公家側からの幕府との連絡係)という職があったけれど、光広は武家伝奏を勤めてはいない。
 慶長19年10月に大坂冬の陣が始まったとき、11月25日に駿府から出陣していた徳川家康を、二条城において、光広は武家伝奏広橋兼勝《かねかつ》、三条西実条《さねえだ》らとならんで慰労している。そして29日には住吉神社で家康に謁した。
 元和2年(1616)2月になり、家康が死の床についたときには、光広は駿府に家康を見舞っている(『扶桑拾葉《ふそうしゅうよう》集』(以下『扶桑』)第28、『あづまの道の記』)。光広と家康との厚誼はこうしたことからも推察されよう。元和3年、家康の遺骸を日光に移葬するに際して、光広は勅使となって供奉(3月15日)。このとき4月4日、日光山坐禅院に参着している(『扶桑』第28、『日光山紀行』)。また同4年6月18日にも江戸に発向、同月29日に江戸着。それから間もない9月6日には西洞院時慶に帰洛を知らせている(『時慶《ときよし》卿記』(以下『時慶』))。
 寛永2年(1625)3月になると、徳川家光の将軍襲職祝賀のため近衛信尋《のぶひろ》ら14人の公卿とともに勅使として江戸に向かい、4月10日江戸城に参じ(『大猷院《だいゆういん》御実紀』(以下『実紀』)『土御門泰重《つちみかどやすしげ》卿記』(以下『泰重』))、4月25日には帰洛している(『忠利宿禰《ただとしのすくね》記』(以下『忠利』)、『資勝《すけかつ》卿記』(以下『資勝』))。
 同9年8月2日には、この年正月に卒した大御所徳川秀忠のために多くの門跡、公家らとともに江戸城にのぼり、光広は時服《じふく》、薫物《たきもの》を拝領(『実紀』)。翌10年の秀忠1周忌に際しては、正月24日勅使として増上寺《ぞうじょうじ》にて法会に参列、納経し、長歌を詠じ(『黄葉』)、25日に家光は光広らを江戸城に引見している(『実紀』)。
 次に光広が江戸下向するのは寛永12年である。2月6日に京を発ち(『忠利』)、同24日江戸に参着し、28日には家光が光広を江戸城に引見、3月7日家光は菓子を贈っている(『実紀』)。同月13日伊達政宗の和歌会に出座し(『貞山公治家記録』)、同14日には将軍から雁を贈られ、同19日には江戸城大広間での猿楽を下段で鑑賞している(『実紀』)。江戸を離れるために家光に謁したのが3月25日、このとき銀100枚と時服10着を餞別として拝領。松平信綱、高家《こうけ》吉良義彌《きらよしみつ》らの来訪を受け(『実紀』)、4月8日に帰洛(『忠利』)。そして同年12月14日にはまた江戸へ出発。28日には江戸城にのぼり、歳暮の拝賀をし、越年。
 そしてこの年3月15日に行われた江戸城での将軍月次《つきなみ》拝賀に参じ、龍口《たつのくち》の屋敷(もと高倉家)を拝領したことを謝している(『実紀』)。このように、公家が江戸に屋敷を持つことは特筆すべき事柄である。その後4月10日、日光正遷宮の儀に院使として参じ、12日に東照宮に太刀を奉納している(『実紀』『黄葉』)。のち帰洛して、同年11月にはふたたび江戸に向かう(『忠利』)。12月16日、このころ江戸在府中の鳳林承章(鹿苑寺住持)に和漢狂句を送り、また19日には誹諧をし(『隔蓂《かくめい》記』)、同月28日に将軍から合力米200俵が給されて、江戸に越年。年明けて4日には江戸屋敷に鳳林承章の訪問を受け、書き初めの和歌を鳳林に見せている(『隔蓂記』)。たまたま「丁丑年」と題する書き初めが遺っているので(図2)、このときに江戸で書かれたことが考えられる。鳳林は2月21日には江戸を発つ(『隔蓂記』)。光広はその後も江戸にいて、帰京の途につくのは7月23日。家光は餞別として光広に時服、白銀を贈り(『実紀』『忠利』)、帰洛したのは8月10日(『忠利』『資勝』)である。以上のように、寛永12年2月から同14年8月までの2年半にわたってはほとんど江戸で生活していることがわかる。

図2
烏丸光広 丁丑年
(架蔵 33.9×49.8cm)

 光広のこうした異例の頻繁な在江戸生活の根底には、家康以来、徳川家からの厚誼抜きには考えられない。もちろん光広という人の人柄もある。そして、それに関連して次のことを忘れてはならないと思う。徳川家康の男《むすこ》の結城秀康(1574~1607)が慶長12年閏4月8日に越前に没したあと、秀康の未亡人(実は江戸但馬守重通(1556~98)の女)が、同年、光広に再嫁しているのである。猪熊事件の2年前である。また事件で光広とともに微罪で済んだ徳大寺実久(1583~1617)の妻は織田信長の女だった。両人ともに武家出身であることから見ても、この陰に家康の計らいが存在したことを推定することは容易である。
 当時の公家社会においては異色の存在として語られることの少なくない烏丸光広の生き方や磊落な人柄と、当時の既成の埒に収まらないその書の姿とは、私の頭の中で容易に結ばれるものである。

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