増田 孝(ますだ・たかし)
1948年生まれ。東京教育大学卒業。博士(文学)。愛知文教大学教授、学長を経て、現在、愛知東邦大学客員教授。公益財団法人永青文庫評議員。テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」鑑定士。
主な著書に『光悦の手紙』(河出書房、1980年)、『茶人の書』(文献出版、1985年)、『書の真贋を推理する』(東京堂出版、2004年)、『古文書・手紙の読み方』(東京堂出版、2007年)、『書は語る 書と語る 武将・文人たちの手紙を読む』(風媒社、2010年)、『本阿弥光悦 人と芸術』(東京堂出版、2010年)、『イチからわかる 古文書の読み方・楽しみ方』(成美堂出版、2024年)、“Letters from Japan’s Sixteenth and Seventeenth Centuries”(Institute of East Asian Studies, University of California, Berkeley, 2022)など。
第10回 松花堂昭乗② 永井直清宛の手紙
【解説】
松花堂昭乗(1584~1639)が茶友の永井直清(1591~1671)に宛てた手紙で、昭乗の住む石清水八幡宮社頭の糸桜をぜひ見に来てほしいと誘う、晩年のものである。宛所の下に「いそきの状にて候」とあることは、今でいえば速達。当時、これ以上早い意思伝達法は存在しなかった。
前回にも書いたとおり、昭乗は、寛永4年(1627)からおよそ10年のあいだ滝本坊の主をつとめたのちに、坊を甥の乗淳(1616~73 中沼左京の子、帥坊《そつぼう》)に譲って、松花堂という庵に隠居した。寛永14年の12月のことである。ここに庵居したのは、茶湯に適した湧水に恵まれ、昭乗はおそらく残る生涯を、数寄三昧に暮らそうと思い描いていたに違いない。昭乗はその後およそ1年9カ月をそこに暮らし、寛永16年9月18日に56歳の生涯を閉じたのだった。しかし、昭乗が当初思い描いていたかもしれない安楽な「隠居」という状況ではどうやらなかったようで、「松花堂」と書かれた書状や、書画の類などもじつは巷間に相当数存在していることから推して、昭乗は隠居後すぐにこれらの文化活動をやめたわけでも、また体力が急速に衰えたというものでもなかったらしい。
ところで、これは何年ごろの手紙なのだろう。日付「三月六日」の下の差出所に「松花堂」と書かれているから、昭乗が松花堂に隠居してから、すなわち寛永15年か16年と見てよいことになる。いずれにせよこれは晩年の書として間違いあるまい。
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松花堂昭乗の住む現八幡市(京都府南部)の地図を広げると、この辺り一帯、淀・伏見の地というのはデルタ地帯である。京都市街の東を北から流れてくる鴨川が、洛西を南に下る桂川、東から西へ向かう宇治川、そこに南東から流れ込む木津川とが一斉に合流して淀川の豊かな流れとなって大阪湾に注ぎこむ。ここはかつて巨椋池《おぐらいけ》といい、人々はそれぞれの島をめぐる水路を利用して往来した。現在、そこを縫って走る京阪本線の中書島《ちゅうしょじま》、近鉄京都線の向島《むかいじま》などの駅名や槇島《まきしま》町などの地名から昔を忍ぶことができる。
この見渡すかぎりの平坦な地形を遠望すると、とある1箇所だけが高い山となっているのがわかる。いかにも神々しい景観である。この山が男山であり、その頂上に石清水八幡宮がある。兼好法師の『徒然草』(52段)の「仁和寺にある法師……」で知られる石清水八幡宮。そこに林立する坊(房)のひとつが滝本坊。もとはその坊主で、晩年は近くに隠居しているのが手紙を書いた松花堂昭乗である。
手紙の宛所となっている永井直清はこのとき長岡藩主で、淀からもほど近い勝龍寺《しょうりゅうじ》城に住んでいる。元和9年(1623)に小堀遠州(1579~1647)が伏見奉行に移ったころから、遠州を中心にひとつの茶の湯文化圏ともいうべきグループが形成される。
そこには、昭乗、大徳寺の江月宗玩(1574~1643)や沢庵宗彭(1573~1646)、奈良の長闇堂《ちょうあんどう》久保利世(1571~1640)、大坂の豪商淀屋个庵《こあん》(1576~1643)、奈良興福寺一乗院諸大夫《しょだいぶ》の中沼左京(昭乗の俗兄元知 1579~1655)、さらに武家を捨てて歌人となった木下長嘯子《ちょうしょうし》(1569~1649)、儒者の三宅亡羊(1580~1649)なども加わる。さらに、寛永10年を過ぎるころ、転封されて淀藩主になった永井信濃守尚政《なおまさ》(1587~1668)や、その家老佐川田昌俊《さがわだまさとし》(喜六 1579~1643)なども入り、しばしば茶湯や詩歌会などを催すといった交遊圏が形成されたのである。その数寄者のサークルの中心はやはり小堀遠州だったし、昭乗なども重要な一員だった。今なお遺されている彼らの間に交わされた手紙はそのことをよく物語っている。佐川田昌俊はまた、昭乗の伝記である『松花堂上人行業記』を著した。
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遠州を中心にした畿内の町人や大徳寺衆、そこに幕閣だった永井尚政、そしてその弟直清らが加わることとなった、その辺の事情について。
大坂冬夏の陣が終わり、日本で戦のおさまった元和年間(1615~24)はそれゆえ元和偃武《えんぶ》とよばれる。この一時期、徳川幕府においては、駿府にいる大御所徳川秀忠と、元和9年(1623)に3代将軍となった家光とによる、いわゆる二元政治が行われていたことは知られるとおり。しかし、この体制は寛永9年(1632)正月に秀忠が没するにおよんで解消。以後、寛永年間後半は〈生れながらの将軍〉家光の時代となる。さっそく寛永10年に家光は幕閣の再編成を開始した。かつて家康・秀忠に親しく仕え、秀忠により家光に配され、附属していた幕閣たちは一斉に解職され、家光の独自色が鮮明に打ち出される。
秀忠時代からの幕閣のひとりである永井尚政もそのひとりで、江戸状西丸の老職として、土井利勝・井上正就とともに、その頃は近侍の三臣とよばれたほどであったが、下総古河城主から山城国淀へと所替えとなった。さらに永井直清(日向守。小性、書院番頭を務めた)は、寛永9年に日向守に叙任して、はじめ山城国(京都府)長岡藩主となり、そののち摂津高槻藩(大阪府)に加増移封され、初代藩主として3万6千石を領し、淀にほど近い勝龍寺城に居を構えた。長岡京、高槻、勝竜寺、ともに八幡の近隣である。永井直清は京都所司代や大坂城代代理を勤めるなど、幕府から信任され治水などにも功績をのこす能吏と謳われた人物である。こうして永井尚政・直清兄弟はこの転封とともに淀・伏見の数寄者サークルに加わった。
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さて、この手紙が寛永15、16年のものであることは先にも書いた。手紙冒頭に「昨日ハ気相あしく候につき、伺公いたさず、無念御残り多く存じ候」とあることから、昭乗の健康状態は必ずしも万全でなかったらしいが、その続きには「気分も昨日よりはよいので、明日はもっとよくなるでしょう」と、上向いている様子である。
書風の観点からこの手紙を眺めると、線も伸びやかで穏やかな安定感があり、ここには執筆時の気分や体調などまでも映しているような、味わいが感じられる。現存する昭乗の手紙は相当数あり、それらを見わたすと、若いころ(式部卿時代)に見えた線の張りつめた力強さなどは、ここではかげを潜めているようだ。昭乗晩年の書はこうした穏和なものに変化したのだろう。やや太めと思われる毛の柔らかな筆を用いて、墨色は薄めに、またゆったりとした運筆であるせいか、極端な渇筆の線は見えない。昭乗の書には潤渇の変化の極端なものも少なくなく、かすれた線はたいへんに読みづらいものであるけれど、この手紙ではそのようなことはない。書とは、如実に筆者の健康状態までも映し出す鏡のようなものだろう。
相手を誘う「浅野殿がお出でにならなくとも、貴方には来てほしいと思っていたところなのです」という相手への配慮の感じられる言葉遣い。しっとりと落ちついた書と相俟って、心のこもった懇ろな言いまわしのうちには、もっぱら社交家としての生涯を送った、昭乗の人物が垣間見えるように思う。