『書史千字文』を読む 文/伊藤文生 〈002〉 嶽瀆闢地、星辰麗天。(その3)

 中国書道史を千字文にまとめた『書史千字文』。
 4字1句からなる原文を、伊藤文生氏(書文化研究会)が2句ずつ読み解いていきます。
 連載をはじめてお読みいただく方は、まずは「はしがき」からどうぞ。
『書史千字文』の全文(原文と現代語訳)をご覧になりたい方は、こちらへ。

中国書道史を千字文にまとめた『書史千字文』。4字1句からなる原文を、伊藤文生氏(書文化研究会)が2句ずつ読み解いていきます。連載をはじめてお読みいただく方は、まずは「はしがき」からどうぞ。『書史千字文』の全文(原文と現代語訳)をご覧になりたい方は、こちらへ。

〈002〉
嶽瀆闢地、星辰麗天。
地には山や川ができ、天には星がかがやいた。

 いよいよ本題に入りましょう。
「星辰麗天」の「麗天」はどのような意味か。
「麗」を「カゝヤク(=かがやく)」とむのは何故か。

「麗」の意味をさぐるために、1500年あまり昔の詩が参考になりそうです。
 コウエン(444~505)の「雑体詩三十首」の第27首に、「朱櫂麗寒渚、金鍐映秋山」という2句が見えます。手軽な参考資料として、岩波文庫『モンゼン詩篇』(六)を見ると、

 シュトウ カンショうるわしく
 キンパン シュウザン

と書き下して、口語訳は

 朱塗りのかいは 冷たき水辺に 色取りよく
 金色の馬冠は 秋の山を背に ひときわ美しい

とあり、きれいな対句になっています(なお、「鍐」の音は「ソウ」が一般的です)。

「朱櫂」と「金鍐」、「寒渚」と「秋山」がそれぞれ対応する語であり、「麗」と「映」も同様の関係にある語として使われているようです。
 ここで『文選』の古い注を見ると、「麗映、謂照曜也」とあります。
「麗」は「映」とともに、その意味を言い換えると「ショウヨウ」である。「照曜」は熟語として『日本国語大辞典』にも立項されていて、「てりかがやくこと。ひかりかがやくこと」と解説されています。
「曜」は「かがやく」ともみます。
「照」は「てる」あるいは「ひかる」とも訓み、「曜」と合わせた「照曜」は「てりかがやく」あるいは「ひかりかがやく」となる。
「映」も「てる」あるいは「かがやく」と訓まれています。
「かがやく」と訓む漢字をさがして、部首によって分類してみると、「光・輝・耀」、「曜・暉・曄」、「煌・煇󠄀・炳・焜・煥・燦・爍」。ほかに「皇・赫・粲・鑠」など。いずれも日本語で「かがやく」と訓󠄀まれることがある。しかし、「麗」を「かがやく」と訓む例はなかなか見あたりません。

 本来は漢語=中国語を書きあらわすための文字である漢字をどのように日本語で言い換えるか。「麗」を「かがやく」と訓む例はないものか。
 コウエンの詩で「麗」と対になり、同類の意味らしい「映」は「かがやく」とも訓まれ、「麗」と「映」とを言い換えた語「照曜」の「曜」も「かがやく」と訓まれている。
 だから、「麗」も「かがやく」と訓んでもよいのではないか。
うるわしく、ゆ」と訓み、「色取りよく、ひときわ美しい」と訳されている「朱櫂」と「金鍐」のありさまを想像してみましょう。『文選』の注によれば、「うるわしく、ゆ」とは「てりかがやく」あるいは「ひかりかがやく」ということです。「色取りよく、ひときわ美しい」「朱櫂」や「金鍐」は、ひかりかがやいていることでしょう。情景を想像してみると、「麗」を「かがやく」の意と解釈しても通じます。

 ここで、「麗」を「かがやく」と訓む証拠をもとめて、あらためて「星辰麗天」という1句について調べてみると、出典が見つかりました。南宋初期の政治家・文章家として知られるコウ(1083~1140)の文集『リョウ谿ケイシュウ』に「星辰麗天而光彩下燭、山川出雲而風雨時至」とあるのでした。「梁谿」は李綱の号で、おくりなは「チュウテイ」。
 ショウコウ5年(1135年)、北宋の思想家チンジョウ(1017~1080)の文集『レイシュウ』の序文として書かれ、『梁谿集』巻138に収載されています。「古霊」は陳襄の出身地で、陳襄は「古霊先生」と呼ばれ、あざなは「ジュツ」。

 李綱すなわち李忠定の文集は日本へも伝わり、江戸前期の日蓮宗の僧・漢詩人・歌人として知られるゲンセイ(1623~1668)の目にとまり、元政の漢詩文集『ソウザンシュウ』巻14の「和李梁谿戒酒詩(リョウ谿ケイさけいましむす)」の序文に次のように見えます。

 とし(おそらく1662年)七月、たまたま長崎のショに逢ひて、チュウテイ公が集を得たり。チンジュツが文集の序に曰く、……星辰の天に麗いて光彩しもらし、山川の雲をいだして風雨時に至り、……

 川口智康編『深草元政『草山集』を読む』(勉誠出版、2017年)には「星辰の天にかがやいて」と訓まれています。『草山集』はよく読まれ、伝統的な訓みとして「星辰麗天」は「星辰天にかがやく」と訓まれてきたらしい。
 ただし、上野洋三注『石川丈山・元政』(岩波書店、1991年)では「星辰の天にいて」と訓んでいます。
 現在、『草山集』(『艸山集』)の刊本はスマホやパソコンを使って容易に見ることができるようになっていて、「麗天」に付された訓点をしらべると「天ニ麗イテ」あるいは「天ニ麗テ」となっています。これだけでは「麗」をどう訓んだのかは確定できません。
「星辰の天にいて光彩下に燭らし」と訓んでいる上野洋三の口語訳は「天上の星が美しい光を地上にふりそそぐ」です。わかりやすい訳文で、原文の「麗」は「光彩」を形容する語のように解釈されています。
 ここで少し考えてみれば、「麗天」は「天にかがやいて」と訓んでも「天にいて」と訓んでも、さらには「天にならび」と訓んでも、「天にうるわしく」と訓んでも、結局のところ、この語句からイメージされる情景は同じようになるのではないでしょうか。
 結論としてまとめれば、星辰が「天にかがやく」と「天にく」とは同じこと。

 なお、『梁谿集』は全180巻あり、元政の『草山集』の序文にも「李忠定公集」とあるので、元政が手にしたのは『梁谿集』ではなく、その選集である『李忠定公文集選』などなのでしょう。その巻之九に「古霊陳述古文集序」は掲載されています。
 いろいろと調べていて、気づくことがあるものです。
『書史千字文』の撰者である陸島立誠は『草山集』を見たのか、『李忠定公文集選』などを見たのでしょうか。
 どちらの可能性が高いだろうか、などと空想していたら、どちらでもないかもしれない、と思い当たりました。

「星辰麗天」は有名な漢籍に出てくる1句でした。正史の一つ『カンジョ』列伝第20下・ジョウカイ伝に「夫星辰麗天、猶萬國之附王者也(れ星辰の天に麗くは、ほ万国の王者に附くがごとし)」とあります。陸島立誠は、『後漢書』はきっと読んでいたでしょう。襄楷は後漢末の学者であり、この「星辰麗天」を含む文章は、後漢のカンテイエン9年(166年)に書かれた上疏文としても有名なものです。

『書史千字文』版本より
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