石井雙石 蝸牛軌跡図
明治・大正・昭和時代
画賛
(五言絶句)
閒坐廉纎雨
幽窗繙典賁
壁蝸還有意
來寫籀斯文
外は細かな雨、
部屋にいて本を開いていたのだが、
ふと見ると蝸牛が壁を這っている……
そんな情景を篆書で書いてみた。
(大意解釈は関俊史氏による)
画の作者は篆刻家の石井雙石(1873~1971)。数え99歳の長命であり刻印の人気は高く、書家の依頼印は愛用され相当数残っている。篆刻は五世浜村蔵六と河井荃廬に師事した。若年から漢学を専家に師事していたこともあり画賛の五言絶句は自作であろう。
最晩年まで筆は執り続け、求めに応じて揮毫した書作品は頗る多い。揮毫の御礼には酒の持参を最も喜んだという。
鉄斎が「まず賛を読んでくれ」と言ったように、昭和の初めまでは漢文の素養によって鑑賞の高さ深さが左右され、ある意味で画を見るなら漢文は読めて当たり前、との通念があったのだろう。冒頭に漢詩の大意を掲げたのはその意があってのことである。
本作は画に五言絶句を賛として書き込んでいる。丁寧な篆書で書き、これを何人にも読めるように楷書行書で小書きしているのは何か事情がありそうだが、あれこれ想像しながら鑑賞するのが楽しい。
99歳まで書いた人の「晩年」とはいつであったのかは難しいが、晩年の書作品は長寿の縁起物と思われたのか生前人気が高く数が多い。その書作品は良く言えば即興性豊かで天真爛漫だが、逆に言えば出たとこ勝負の感無きにしも非ず、と感じるものも少なくない。
先に書いたように酒を好むことこの上なき人物であったから、ことによると酒興に任せて心の赴くままに筆を走らせたのではないか? と想像するのは私だけだろうか。
ところがそれらに比してこの蝸牛図の書は、筆の速度は早そうだが筆画鮮明で精整な篆書であり、なにしろ文字が小さくて数が多い。晩年の作品はいわゆる少字数の作品がほとんどなのだが、蝸牛の画を描きこれに自作詩を行草ではない多字数で入れるなど手間をかけた作であり、酒興に任せて成せるものとは思えない。そしてかなり若い頃の作品であろうと思われる。
画は油煙墨を用いて腕の動き大きく軌跡を没骨法で描き、蝸牛を線と没骨で描く。たっぷりとした水筆の描線は湿潤な空気を髣髴とさせている。静かな部屋、細かい雨ゆえ音はなく雨だれの滴音が聞こえているのかもしれない。
自用印は、「井碩之印(白文)」、「井子寛印(朱文)」、右下に「對嶽山房主人」、左上に「白雲堪臥」。
幅狭い画面に印が4顆、しかも押脚印がどう見ても過大であるのだが、これは雙石の篆刻家としての自己主張ではないかと推察する。
自室に軸を掛け間坐すれば……。ずいぶんとカタツムリを見ていないな、と思い入る梅雨の頃である。
◉資料提供/光和書房
◉解説/田邊栖鳳(扶桑印社副代表)