増田 孝(ますだ・たかし)
1948年生まれ。東京教育大学卒業。博士(文学)。愛知文教大学教授、学長を経て、現在、愛知東邦大学客員教授。公益財団法人永青文庫評議員。テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」鑑定士。
主な著書に『光悦の手紙』(河出書房、1980年)、『茶人の書』(文献出版、1985年)、『書の真贋を推理する』(東京堂出版、2004年)、『古文書・手紙の読み方』(東京堂出版、2007年)、『書は語る 書と語る 武将・文人たちの手紙を読む』(風媒社、2010年)、『本阿弥光悦 人と芸術』(東京堂出版、2010年)、『イチからわかる 古文書の読み方・楽しみ方』(成美堂出版、2024年)、“Letters from Japan’s Sixteenth and Seventeenth Centuries”(Institute of East Asian Studies, University of California, Berkeley, 2022)など。
第15回 [コラム]松花堂の名と昭乗の庵居開始の時期
寛永の三筆のひとり、松花堂昭乗(1584~1639)は、はじめ鐘楼《しゅろう》坊と称し、のちに式部卿、滝本坊、松花堂と名を変えた。本稿では晩年の庵名である「松花堂」の使用開始時期について書いておきたい。
昭乗が庵居を始めた時期は、寛永14年(1637)12月中旬であることは、(同年)12月23日付の永井直清宛書状(個人蔵)の中にある「当月中比いんきよ仕やふの内ニ堂を立て居申候名ヲハ松花堂と申候……」との記述がその主たる根拠となっている。そして、庵居開始と時を同じくして「松花堂」という号を使い始めたというふうに考えられている。その根拠はふたつある。ひとつは、この年に勃発した島原の乱に際して、幕命をうけて出兵する立花左近将監(忠茂)が、武功を立てることを石清水八幡宮に祈願し、初尾として1貫300文を同社に奉納したとき、それへの、12月吉日付、立花宛ての昭乗の礼状(『古文書雑纂』3)があって、その差出所が「滝本坊」と記されていることを根拠として、「昭乗が松花堂閑居以前から称号として松花堂を用いたのではないか、という憶測は成立しないことが明白」(注)だと言われてきた。
ふたつ目は、(同年12月)「十六日」付の小堀遠州(1579~1647)書状である(図1)。文中で島原の乱に触れていて、宛所は「松花堂尊老」となっている。そして、その返し書き中で、「此中もはや松花堂へ御うつり候哉」と尋ねているのである。この2点によって、昭乗の松花堂隠居と庵号使用開始は同時期(寛永14年12月中頃)と考えられているわけである。
ところが、必ずしもそうとは断定できないような史料が出現した。昭乗が小堀遠州に宛てた「十月廿六日」付の書状(図2)である。
見ると、それが昭乗の真筆であることに疑いは持たれず、その内容はじゅうぶんに信のおけるものと判断される。手紙に出る人名などからも、本状が寛永14年のものである蓋然性のきわめて高いものである。奥にあるウワ書には、「小遠州様 拝進 松花堂」となっている。つまり、この年10月26日の時点ですでに昭乗は「松花堂」の名を用いているわけである。ということは、庵居開始と庵号「松花堂」の使用開始には2カ月ほどのズレがあった。今のところ、この手紙は最も早い「松花堂」の使用例かもしれない。
さらにこのことは、次のように解せられよう。昭乗は平素親しい小堀遠州には、寛永14年10月の時点で、その庵名「松花堂」を知らせていた。だからこそ遠州は、12月16日付の手紙の宛所を「松花堂尊老」と書き、その返し書きでは「松花堂へ御うつり被成候哉」と問う文脈になったのである。
一方、平素、昭乗が個人的交流を持たなかったと考えられる立花忠茂に宛てた書状においては、たとえそれが12月吉日付であっても、差出所に私的な庵名「松花堂」を用いず「滝本坊」としたことはごく自然なことと考えられるであろう。
(注)橋本政宣「滝本坊とその文化の源流」(『日本歴史』281号、82~83頁、吉川弘文館)
(協力/川畑 薫、中里 潤)