
増田 孝(ますだ・たかし)
1948年生まれ。東京教育大学卒業。博士(文学)。愛知文教大学教授、学長を経て、現在、愛知東邦大学客員教授。公益財団法人永青文庫評議員。テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」鑑定士。
主な著書に『光悦の手紙』(河出書房、1980年)、『茶人の書』(文献出版、1985年)、『書の真贋を推理する』(東京堂出版、2004年)、『古文書・手紙の読み方』(東京堂出版、2007年)、『書は語る 書と語る 武将・文人たちの手紙を読む』(風媒社、2010年)、『本阿弥光悦 人と芸術』(東京堂出版、2010年)、『イチからわかる 古文書の読み方・楽しみ方』(成美堂出版、2024年)、“Letters from Japan’s Sixteenth and Seventeenth Centuries”(Institute of East Asian Studies, University of California, Berkeley, 2022)など。
第44回 本阿弥光悦筆「蓮下絵百人一首和歌巻」(7の2) 複製にのこる継ぎ目痕

本阿弥光悦筆「蓮下絵百人一首和歌巻」複製本
(※横にスクロールしてご覧ください)
まず複製本の全体像を掲げておく。長さは計13m44cmである。この和歌巻には多くの継ぎ目がのこされている。まずそれらが実際にどのようであるのかを把握しておく必要がある。しかし、ここに掲げる全体写真では見えにくいので、詳しくはこのあと、接写した写真をもとに考えてみたい。
散佚をまぬがれて残ったはずの「蓮下絵和歌巻」に、なぜ切断されてつながれた痕があるのだろうか。しかもその痕跡は、連続する和歌と和歌との間にも見られるし、1首の和歌の途中などにもある。よく見ると、それら隣接する和歌の行間の余白が狭いものがある。なぜこのようなことがあるのだろうか。このことからは、散佚する前に巻子が切断された時期があったこと。その段階において散佚が行われたこと。さらにそのあと、残ったものを巻子にしたこと。そこから複製が作られた、という順序が推察されてくるのである。
さて、もとの料紙の紙幅はある程度決まっていたと考えられる。巻子前半においては1枚がおよそ91cm前後、後半はおよそ100数cm前後の料紙だったようである(後述)。ところが、複製本によって切断痕を丹念に追ってみると、切断幅は驚くほど複雑な様相を呈している。狭いところではなんと1.2cmしかない。いったいなぜこのようなことになったのだろうか。もしかすると、和歌巻が解体されて襖に貼られたという逸話を裏付けるヒントがここに隠れているかも知れないのである。要するに襖に貼るためには、それに合わせて切断される必要があるからである。散佚は和歌を単位とするのが原則なのであろうが、1首の和歌の途中で切られるなどの乱暴な切断が見られるのは、襖の幅に合わせて切ったからではないかと考えさせるのである。
ところで、そもそも料紙を切るという行為を、揮毫する立場からも考えてみる必要がある。下絵の連続する料紙に和歌を書く際に、もとより書に失敗は許されない。また、光悦ほどの能書家であれば、ミスはあり得ないのかも知れない。しかしながら、書き進むなかで、その書表現に満足できない、あるいは納得のゆかないようなこともおこらないとは限らない。そのようなときには料紙を切ったりつないだりする必要も出てこよう。下絵のない場所であるならばそれは容易である。
またそうではなく、しばらく書き進んだあとで、誤りに気づくこともあろう。誤字や脱字などを、あとから書きなおすこともあるかも知れない。しかし、戻ってその部分を切りとるなどのことはもはやできないようなときには、該当箇所に抹消記号を付し、加筆することになる(図A・B・C)。そのようなところも少なくない。

「すみの江の」

「紅葉踏分」

「のハら涌て」
ともあれ、これが書作品であるという性質上、写本をつくる仕事とは異なるはずで、誤字脱字などの問題よりも、書表現そのものが重視されるものなのである。そのようなわけだから、料紙を切り取って書き直すのか、そうではなく、文字の訂正だけで済ませるのかは、そのときどきの揮毫者の判断に任されている。書家自身が揮毫途中に、料紙を切ったり、つないだりすることがあるのだろうか。それはとても難しいはずである。できあがった料紙に細工を加えるのは、表装の専門家(すなわち職人)の仕事だからである。書家が揮毫しながら容易に行えるようなことではないであろう。今ここでそのような抽象論をしている場合ではない。
ひとたび完成した和歌巻を、あとになって切ったり、またそれを繋ごうとすると、どのようなことになるだろうか。完成した作品を切ったような場合、その部分を元どおりに復元することは不可能となってくる。なぜかといえば、ひとたび切った箇所をつなごうとすると、継ぎ目には当然、糊代(のりしろ)が必要となってくる。その場所は紙を重ねなくてはならないのである。だから、継ぎ目を挟む行間はその分、狭くなってしまう道理である。さらに、もし下絵が描かれていれば、そこは下絵が連続しなくなることにもなる。
そのようなわけで、揮毫者自身が制作途中において料紙を切ったり、つないだりする場合、行間余白が不自然に狭まることがないように、おそらく細心の注意を働かせて手を加えることになるであろう。すなわち、このことを言いかえるなら、要は、揮毫しつつその時に行った料紙の切り継ぎと、作品完成後の切断とでは、作品の仕上がりが異なってくるだろうということである。「蓮下絵和歌巻」の継ぎ目を観察しようとする場合、こういった点の有無に注意を払いながら見てゆく必要がある。
料紙は大小およそ22枚である。したがって継ぎ目は21箇所確認される。いまおよそと書いたのは、第15紙の幅だけが174.4cmだからである。これはさきほど標準とみた料紙のおよそ2倍の紙幅に相当する。ところが第15紙のところだけ、どうしても継ぎ目が見出せないのである。私の思うには、おそらくここは2枚の料紙だったのが、複製の写真撮影をするときに、ライトのあて方によって継ぎ目が写らなかったのではなかったろうかということである。
次に、複製本の各料紙幅と、そこに書かれる和歌番号とを示しておく。
複製本の各料紙幅と和歌番号
1紙 91.7cm 1「天智天皇」~ 8「喜撰法し」
2紙 6.9cm 8「我庵ハ……人はいふなり」
3紙 67.3cm 9「小野小町」~14「我ならなくに」
4紙 16.4cm 15「光孝天皇」~16「ミねに生ふる」
5紙 52.8cm 16「まつとし」~20「逢むとそ思」
(※21~26複製本になし)
6紙 85.0cm 27「中納言兼輔」~32「紅葉なりけり」
(※33~50複製本になし)
7紙 107.7cm 51「ふちハら実方」~53「物とかハしる」
8紙 73.2cm 54「儀同三司母」~55「猶聞えけれ」
9紙 29.7cm 56「和泉式部……あふ事もかな」
10紙 62.1cm 57「紫式部」~58「忘やハする」
11紙 1.3cm 58「忘やハする」
12紙 90.2cm 59「赤染衛門」~61「八重桜」
13紙 5.7cm 61「今日九重に」
14紙 8.5cm 61「にほひぬるかな」
15紙 174.4cm 62「清少納言」~67「名こそおしけれ」
16紙 81.2cm 68「三条院」~70「秋の夕暮」
17紙 4.4cm 71「大納言経信」
18紙 92.5cm 71「ゆふされは」~73「たゝすもあらなむ」
(※74~80複製本になし)
19紙 71.7cm 81「後徳大寺左大臣」~83「山のおくにも鹿そ鳴なる」
20紙 50.7cm 84「藤原清輔朝臣」~85「つれなかりける」
(※86~92複製本になし)
21紙 105.1cm 93「鎌倉右大臣」~94「衣擣也」
(※95欠落)
22紙 70.3cm 96「入道前太政大臣」~96「わか身成けり」
(※97~100複製本になし)
複製本にのこるすべての継ぎ目箇所がどのようであるのか、ひとつずつまとめてみる。

【継ぎ目①】(図1)
第1・2紙の間にある。第1紙8「喜撰法師」と第2紙8「我庵ハ…」との行間余白の幅は自然である。また、この継ぎ目は歌人名と和歌との間にある。これはもとからある料紙の継ぎ目と考えることができる。ちなみに、もとの紙幅はおよそ91cmほどと推定してよいと思う。料紙幅については中田勇次郎も触れている(『本阿弥光悦』書道藝術18、中央公論社、1976年、195頁)。
【継ぎ目②】(図1)
第2・3紙の間にある。8「…人ハいふなり」と第3紙の9「小野小町」との行間余白は不自然に狭い。したがって、継ぎ目②は当初からあるものとは考えにくく、巻子成立後のものと判断される。

【継ぎ目③】(図2)
第3・4紙の間にある。14「…我ならなくに」と15「光孝天皇」は和歌が連続する。にもかかわらず、ここが切られているのである。この行間余白は不自然に狭い。したがって、この切断はおそらく巻子成立後のものと判断される。

【継ぎ目④】(図3)
第4・5紙の間にある。1首の途中、16上の句「…ミねに生る」と下の句「まつとし聞ハ…」との間にある。この継ぎ目の行間余白は狭くない。これは巻子成立当初からの継ぎ目であって、後世の切断とは考えにくい。

【継ぎ目⑤】(図4)
第5・6紙の間にある。20「…逢むとそ思」の後ろに来るべき21から26は欠けている。27「中納言兼輔」が次にくる。それゆえ、この継ぎ目⑤を挟む行間余白は不自然に狭いことがわかる。

【継ぎ目⑥】(図5)
複製本第6・7紙の間にある。32「…紅葉なりけり」の次にあるのは51「ふちハらの実方朝臣」である。このように今、複製本ではつながっているけれども、32に続く33~50は欠落している。だから、もしもとの100首が上下2巻本だったと仮定すれば、この51「ふちハらの実方朝臣」は下巻の冒頭に書かれていたはずである。だから、51「ふちハらの実方朝臣」の前にはじゅうぶんな余白があったと考えてよいわけである。この継ぎ目が不自然に狭いわけではないことは、上記の状況から判断できることとなる。
さて、51「ふちハら実方朝臣」から、73「あらなむ」までの連続する和歌は複製で見ることができる。切れ目の存在しない第7紙の紙幅は107.7cmであることから、下巻になると料紙1枚の紙幅は100cmを越える大きさとなったように推定されるのである。ここを境として、下絵も大きく変わる。

【継ぎ目⑦】(図6)
第7・8紙の間、すなわち、53「…物とかハしる」と54「儀同三司母」との間にある。ここに継ぎ目はたしかに存在するけれども、写真からでは見えにくく、複製本を実見しないと確認は困難だと思われる。この継ぎ目をはさむ行間余白は自然な広さをもっているので、後世の切断痕ではないと考えてよかろう。

【継ぎ目⑧】(図7)
第8・9紙の間にある。55「…猶聞えけれ」と56「和泉式部」との間にある。この行間余白は自然な広さがとられているうえ、下絵に描かれる蓮華にも欠落はない。これは巻子成立当初から存在する料紙の継ぎ目である。

【継ぎ目⑨】(図8)
第9・10紙の間にある。56「…あふ事もかな」と57「紫式部」との間にある。この行間は不自然に狭い。下絵の2箇所(紙面上方の茎と下方の花弁)に欠落がある。これは巻子が成立した後に切断されたことを示すものである。

【継ぎ目⑩】(図9)
第10・11紙の間にある。継ぎ目の下部に位置して58「やハする」と59「赤染衛門」との間にはかなり接近する位置に2箇所の継ぎ目が確認できる。このうち、前方の継ぎ目にかかって「す(須)」が書かれている。それにもかかわらず、「す」の字形は完全であって後世に切られたような痕跡はない。だからこれはもとの料紙の継ぎ目と見られるのである。継ぎ目の上部に描かれる蓮茎も切れてはいない。
【継ぎ目⑪】(図9)
第11・12紙の間にある。先述のとおり、10・11紙にかかる58「す」の一部が書かれる紙幅はわずか1.3cmに過ぎない。そのすぐ後ろ、12紙には、59「赤染衛門」が書かれる。この58「する」と、59「赤染衛門」との行間余白は不自然に狭いのである。のみならず、下絵をみると、蓮茎に明らかな欠落がみえる(上部)。したがって、ここは、巻子成立後に切られたものと考えられる。なぜこうしたことになったかを考えてみると、すぐ前行の「やハする」はもとの両紙の継ぎ目にかかって書かれるため、ここで切るわけにゆかず、あえてこの字を生かして「赤染衛門」との間を切り、そしてそれをつないだというわけである。結果的に、行間幅は狭く、下絵も切れてしまったのであろうと考えられる。

【継ぎ目⑫】(図10)
第12・13紙の間にある。第12紙の末行は61「八重桜」であり、第13紙(幅5.7cm)には61「今日九重に」が書かれる。ここの行間余白はたっぷりととられていて、下絵の茎もつながっている。すなわち、これは当初の料紙の継ぎ目である。
【継ぎ目⑬】(図10)
第13・14紙の間にある。61「今日九重に」と61「にほひぬるかな」(第14紙、幅8.5cm)の行間余白は広いので自然にみえる。また下絵の蓮茎も切れてはいない。そのようなわけで、紙幅は狭いのだけれども、この継ぎ目は巻子成立後のものではなく、当初のものと考えられる。しかし、このように13・14紙がなぜ狭い紙幅であるのか、その理由は不明である。
【継ぎ目⑭】(図10)
第14・15紙の間にある。13紙の書は、下絵の蓮の蕾の上に61「にほひぬるかな」が書かれる。そしてこの後ろの切断はじつに不自然な位置でなされている。「にほひぬるかな」と、62「清少納言」との行間余白は不自然に狭い。しかも蓮の蕾は3分の1ほど欠けている。この切断が巻子成立後のものであることは明白である。

【継ぎ目⑮】(図11)
第15・16紙の間にある。67「たゝむ名こそをしけれ」と68「三条院」との行間余白は自然であるから、この継ぎ目は巻子成立時のものとみられる。

【継ぎ目⑯】(図12)
第16・17紙の間にある。70「秋の夕暮」と71「大納言経信」との間は、和歌が連続するにもかかわらず、ここには切られた痕がある。そしてこの行間余白はやや狭いと感じられる。さらに下絵を見ると、蓮弁の輪郭線に欠落があってつながらない。よって、この継ぎ目は巻子が成立した後のものであることを示している。
【継ぎ目⑰】(図12)
第17・18紙の間にある。71「大納言経信」と「ゆふされは門田の」との行間余白の幅は、自然である。下絵にも欠落はない。これは揮毫したときからある料紙継ぎ目と見てよい。

【継ぎ目⑱】(図13)
第18・19紙の間にある。73「あらなむ」に続く74~80の7首は欠落している。したがって、81「後徳大寺左大臣」で始まる第19紙は前が散佚していることがわかる。それゆえ、上部に描かれる蓮茎もここで切れているわけである。

【継ぎ目⑲】(図14)
第19・20紙の間にある。83「山のおくにも鹿そ鳴なる」と84「藤原清輔朝臣」との間の継ぎ目である。83「鳴なる」の文字の大きさはとても小さく、やや窮屈な様には見えるけれども、けっして不自然な位置に書かれているわけではない。続く84「藤原清輔」との行間余白も自然であることや、何よりも、下絵の蓮華に少しの欠落もないことから、これは後世の継ぎ目だとは考えられないのである。

【継ぎ目⑳】(図15)
第20・21紙の間にある。85「つれなかりける」と、93「鎌倉右大臣」との間にある。この切断部分には和歌番号86~91の6首が欠落する。行間の広さはじゅうぶんにとられている。また、継ぎ目にかかる下絵はない。

【継ぎ目㉑】(図16)
第21・22紙の間にある。第21紙94「衣擣也」の次に来る(95)は欠落する。第22紙96「入道前太政大臣」の下絵を見ると、蓮華の右半分が欠落する。
以上のことから、複製本全22紙に見る21箇所の継ぎ目のうち、巻子が成立したあとでの切断痕と判断されるのは次の5箇所ということになる。ちなみに、この部分の和歌はすべて連続する。
継ぎ目②(図1) 8「人ハいふなり」・9「小野小町」
継ぎ目③(図2) 14「我ならなくに」・15「光孝天皇」
継ぎ目⑨(図8) 56「あふ事もかな」・57「紫式部」
継ぎ目⑪(図9) 58「やハする」・59「赤染衛門」
継ぎ目⑭(図10) 61「にほひぬるかな」・62「清少納言」
継ぎ目⑯(図12) 70「秋の夕暮」・71「大納言経信」
これら巻子にのこる6箇所の切り継ぎ痕から、つぎのような過程を想定することができる。
1. 『蓮下絵和歌巻』は巻子本として成立したあと、切断された時期があった。
2. その時期に部分的な散佚がなされた。
3. 散佚をまぬがれた57首の和歌は再び繋がれ、1巻に装幀された。
4. その57首から複製本が作成された。
5. 関東大震災で原本が失われた。
これらは次のようにまとめることができる。『蓮下絵和歌巻』は、もとの和歌巻の状態で散佚が始まったのではなく、巻子解体の次期に散佚があったと考えられる。こうした推定順序を、さらに補強する証が、断簡の中からも見つかっている。和歌番号46と47との間にそれはある。具体的にはその回で述べることにする。