「おバカな質問」にガッツリ答えます! 文/財前 謙 vol.16 書作品になぜ釈文が必要?

疑問を持ちつつ、なんとなくそのままにしていることってありませんか?
游墨舎スタッフが耳にした素朴な(おバカな?)疑問(Q=Question)を、

その道のプロフェッショナルの方々にお尋ねし、
回答(A=Answer)をまとめていた以前の連載「書道に関するおバカな質問」を一新。
新シリーズでは、書家であり研究者でもある財前謙氏が、とことんガッツリお答えします。

疑問を持ちつつ、なんとなくそのままにしていることってありませんか? 游墨舎スタッフが耳にした素朴な(おバカな?)疑問(Q=Question)を、その道のプロフェッショナルの方々にお尋ねし、回答(A=Answer)をまとめていた以前の連載「書道に関するおバカな質問」を一新。新シリーズでは、書家であり研究者でもある財前謙氏が、とことんガッツリお答えします。

Q 書作品になぜ釈文が必要?

 数年前に書道を始めて、近々初めて書道展に出品予定ですが、要項には釈文の提出の規定があります。その但し書きには、「出典のコピー可」「手書きの場合は楷書」と記されています。
 書作品そのものが字を書いているのに(しかも自分の作品は楷書の臨書作……)、あらためて釈文の提出をさせられるのは、ちょっと解せません。どうして釈文の提出が必須なのでしょうか?(30代男性、公務員)

A 展覧会運営上はある程度許容せざるを得ない課題といったところでしょう。

 字を書いている作品に、わざわざなんという字が書かれているかを説明するのは、滑稽なことに違いありません。でも、今それを即座になくせるかというと、それも厳しいように思われます。
 書道展の釈文は、「なくせたら理想だけど、今は仕方ないところ」、「展覧会運営上はある程度許容せざるを得ない課題」といったところではないでしょうか。

なぜ釈文提出が必要なのか

 「なぜ釈文が必要なのか」について、明確に示してくれる資料は見つかりそうにありません。当「ちゃんねる」スタッフの一人は、さすがに編集者目線で、目録や図録制作のためではないかとの類推を挙げてくれました。それも十分理由として妥当性があります。しかし、目録や図録制作のためだけなら、現在なら紙の釈文用紙に記入して提出するより、出品者各自がテキスト入力の上、電子送信する方がかなり省力化に貢献できるはずです。もちろん、紙の釈文用紙に記入して提出するのも、デジタルが普及する以前からの前例にしたがっているだけのように思われます。
 あくまでもここでいう「釈文提出」は、その理由として、

 1 審査上の都合
 2 鑑賞者への配慮

の2点が推測されます。
 まず「1 審査上の都合」ですが、書作品に誤字や脱字がないかどうかの確認をする際に活用されていることは十分に想定されます。
 審査という行為は、その審査結果で審査員としての見識が逆に審査されることでもあります。したがって、審査員にとってはどのような作風の作品を選ぶか以上に、客観的に妥当な字が書かれているかどうかの判定は重要なポイントです。作風については価値観の問題ですから見解が分かれても仕方ありませんが、誤字脱字は客観的な判断ができますから、その確認は審査員にとっては重要なポイントとなるはずです。
 特に、入賞候補作では、誤字脱字があると入賞候補から外れていくというのが一般的です。そのために、作品に書かれている詩文の正確なテキストとしての釈文提出が求められていると考えるのが妥当でしょう。
 特に、応募要項にわざわざ「楷書で」と書いてあるところから、いわゆる「崩し字」の判読のために、釈文が必要とされたであろうことは納得されるところです。「崩し字」というのは口語的な実用語で、それらの多くは楷書を崩して出来上がったものではありません。正確には草書や変体仮名など、楷書で文字習得をした現代人には判読が難しい字のことです。
 また草書や変体仮名などの「崩し字」のみならず、篆書や隷書など、やはり楷書の漢字認識からは判読し難い書体が正しいかどうかの判定にも、釈文を必要としていることは容易に想像できます。
 入選、そして入賞のためには、誤字脱字は厳禁という、無言のルールがないと、いい加減な字を書いても許されるという風潮では、箍(たが)が外れて安易に走る傾向は想像に難くありません。したがって、釈文の提出はそのような防波堤のような役目を果たしているといっても良いはずです。書道が伝統的な文化であるがゆえの宿命でもあります。
 次に、「2 鑑賞者への配慮」ですが、提出した釈文用紙を作品の脇に掲示する展覧会も珍しくありません。やはりこちらも、会場で鑑賞者が作品に書かれている内容を理解するための補助として、ことに難字(崩し字や篆書など)の理解を促すことになります。
 また、特に漢詩や漢文を揮毫している場合、やはり日本人にはどうしてもすらすらと意味が理解できるものでもありませんから、句読点や改行のある、詩文の形式にしたがった釈文でその内容を理解するのにも役立っています。古い和歌などを書いた作品では、いくら日本語でもやはりその内容は、音だけでは把握しづらいこともありますから、釈文に漢字表記の配慮などがされていると、鑑賞者にとってはありがたいことがよくあります。
 あるいは、作品を鑑賞しながら、どうしても読めない字にであったときに、釈文を見て、自分の不明を知らされることもありますし、その書者の独特な文字造形を改めて知る手掛かりになるものとしても、釈文はやはり大いに役立つものです。
いずれにしても、一般の人には分かりにくい書体で書かれた字を理解させる利点が、釈文にはあります。なにが書かれているかが分かって、作品の理解が深まります。釈文は、その「橋渡し」の役目を負っているのです。
 書かれた内容は、書き手の「選択」であり、その人の思想表明でもあります。書かれている内容の理解が、筆致の説得力にも結びつくので、書作品に釈文がある理不尽を一概に否定できるものではありません。
 ただし、書者にとって釈文は油断の許されないものであることも心得ておかねばなりません。
 以前に、「作品は賞をもらっているが、ペンで書いた釈文の文字があまりにも稚拙で、その書き手の実力が透けて見えた」という感想を耳にしたことがあります。その書者がかなり著名な方だったので、その高いネーミングとペン字のギャップが、このような評価につながったのかもしれません。鑑賞者から見透かされることのないよう、釈文記入では手を抜かず、細心の注意をって取り組む必要がありそうです。

釈文というパラドックス

 さて審査の都合であれ、鑑賞者への配慮であれ、読めない字の読解のために釈文を必要とするのであれば、書道展に出品される多くの作品に難読の文字がたくさん書かれているということでもあります。別の言い方をすれば、現代人が読めない字を書いていても、展覧会では許容されるということでもあります。
 たとえば、古文書や古筆、あるいは篆書、さらにさかのぼって甲骨文や青銅器に鋳こまれた金文を解釈するのに、現代人にはまず読めませんから、専門家が読解した釈文は大いに役立ち、益するものがあります。それはその対象が時代的にかなりかけ離れていて、文字の標準が変化しているためです。
 現在の日本人には、漢字でいえば楷書、そして楷書の造形から理解可能な行書、そしてひらがなとカタカナが標準的な、理解可能な文字です(ここでいうひらがなは、小学校で習う五十音図にあるひらがなのことで、いわゆる変体仮名は含みません)。もちろん現代の書道展は、当然のことながら同時代の人々に鑑賞されることを目的としているはずですから、そこに現代人が読めないような字を書くこと自体が、不自然なことでもあります。
 なんという字か読めずに困ったら、釈文で理解する──審査の場であれ、鑑賞の場であれ、この行為は一見正しい態度のように見えますが、あらためて考えてみると、滑稽なことでもあります。なぜなら、書は字を書くもの、字は文章や詩歌となって、その思いを伝えるものですから、最低限「読める」ということが必須だからです。たとえ、古い時代の書を学んだとしても、それをそのまま書くのは模倣であって、真に現代の表現とは言い難いはずです。理屈を詰めれば、読めない字を書くのは、いわば意味のない字を書いていることに等しいのです。
 でもそれが現代の書道では当然のように行われているのは、考えてみる必要があるでしょう。現代書道はいつの間にかその一番大事なことを忘れ、古い時代と同じ字を書くこと、また書けることの技術を競う「そっくりごっこ」を良しとする風潮があります。この風潮にのめりこんで盲目になると、その違和感にさえ気づかなくなってしまいがちです。しかしこれは、一般人の醒めた目からしたら、なんの興味も湧かない遊戯にしか映らないことを冷静に考える必要があります。
 過去ばかりを見て、それに準じるのを良しとする姿勢は、すでに退化です。マンネリに安堵している人たちからの批判を恐れない「潔さ」が、芸術家には必要です。自分の生きている「時」を自覚し、「今」を見ること、「未来」を見ることは、もっと大事なことです。過去のモノマネをして字を書くのではなく、「今」を見据えないと、今はもとより、将来も文化として価値はありません。
 これまでの経緯がありますから、釈文不要とは一概にはいかないでしょうが、そのあたりの冷静さを得たときに、現代書道は次のステップを踏むことができるのではないでしょうか。その意味では、字を書かれている書作品に、わざわざ釈文をつけるというパラドクスは、書の次への進化のための啓示なのかもしれません。

何を書くか

 また、ご質問で釈文提出が「出典のコピー可」とする要件から、出品作品が書籍化されている詩文を書くことを前提としているように見受けられます。もちろん、書籍になっている他者の著述ということで、自分の言葉を書くということはあまり想定されていないようにとらえられます。
 では過去の書は、何を書いてきたのでしょうか。
 あらためて、思いつくままに、まずは書き手自身が自分の言葉を書いた名跡を列挙してみましょう。

・〈蘭亭序〉 王羲之
・〈十七帖〉 王羲之
・〈鄭羲下碑〉 鄭道昭
・〈孔子廟堂碑〉 虞世南
・〈晋祠碑〉 太宗
・〈温泉銘〉 太宗
・〈書譜〉 孫過庭
・〈昇仙太子碑〉 武則天
・〈顔氏家廟碑〉 顔真卿
・〈争坐位稿〉〈祭姪稿〉〈祭伯稿〉 顔真卿
・〈風信帖〉 空海
・〈離洛帖〉 藤原佐理
・〈前赤壁賦〉 蘇軾
・〈黄州寒食帖〉 蘇軾
・〈蜀素帖〉 米芾
・〈苕溪詩巻〉 米芾

顔真卿「争坐位稿」
(木雞室蔵)

 これら以外にも、たとえば良寛や呉昌碩などの作品は、多くが自らの詩文を揮毫したものであることが思い出されます。
 これとは別に、他者の言葉を書いて名跡に数えられているものも、少なくありません。こちらも思いつくままに列挙してみます。

・〈楽毅論〉 夏侯玄の文章を、王羲之が揮毫
・〈真草千字文〉 周興嗣次韻の「千字文」を、智永が揮毫
・〈九成宮醴泉銘〉 魏徴の撰文を、欧陽詢が揮毫
・〈雁塔聖教序〉 太宗と高宗の撰文を、褚遂良が揮毫
・〈枯樹賦〉 庾信の詩を、褚遂良が揮毫
・〈伏波神祠詩巻〉 劉禹錫の詩を、黄庭堅が揮毫
・〈崔子玉座右銘〉 崔瑗の文を、空海が揮毫
・〈玉泉帖〉 白居易の詩四首を、小野道風が揮毫
・〈屏風土代〉 大江朝綱の詩を、小野道風が揮毫
・〈白氏詩巻〉 白居易の詩を、藤原行成が揮毫
・〈高野切古今和歌集〉 「古今和歌集」を、三人の書者が揮毫
・〈関戸本古今和歌集〉 「古今和歌集」を、一人の書者が揮毫
・〈粘葉本和漢朗詠集〉 「和漢朗詠集」を、一人の書者が揮毫

藤原行成「白氏詩巻」
(東京国立博物館蔵)

出典:ColBase

 こうすると、書かれた詩文は、自分のものであろうが、他者のものであろうが問題ないように見えます。ただし、器用に書けているだけで名跡として評価されているわけではないのではないでしょうか。それぞれの時代において、その筆者たちが、それらを書いた必然がそこには何かあるように見えます。その著しい例を2つほど検討してみましょう。
 欧陽詢が揮毫した「九成宮醴泉銘」は、唐帝国を樹立した太宗の離宮 九成宮の敷地内にて、太宗自らが涌き出る泉を発見し(少し出来過ぎた話のような気もしますが……)、それを記念して建てられた碑です。その撰文は、「天下第一の宰相」と讃えられ、「貞観の治」を導いた魏徴です。彼の「人生意気に感ず 功名誰か論ぜん」という一節はあまりにも有名です。書家としても優れていたといいますが、人品の高潔と政治の功績から、書家としての名声が薄まったとも言われる人物です。その魏徴の撰文を、しかも太宗の別荘の碑を書くわけですから、このときの欧陽詢の緊張感はいかほどだったことでしょう。
 他人の詩文を書くといっても、そのへんの本棚から詩集を取り出し、字面の良い字のある詩文を、ただ作品に仕上げたのとはわけが違います。欧陽詢は、その文章を読み込み、生涯の大仕事をやり上げる意気込みで書いたものと察します。
 同じく楷書の頂点にある「雁塔聖教序」は、言うまでもなく玄奘三蔵法師がインドの旅から持ち帰った経典類の漢訳が長い年月の末に成し遂げられ、これを収めるために建立された大雁塔の入り口左右にはめ込まれた碑です。しかも、その撰文は太宗と高宗による勅撰で、これを書いた褚遂良もまた、この上ない緊張感をもって染筆したにちがいありません。
 大雁塔は玄奘の偉業はもとより、シルクロードの文化交流を象徴する初唐の一大遺産です。観光目的で地元が競って世界遺産候補に手を挙げるようなものとは桁違いな建造物です。ですから褚遂良のこの碑の揮毫にかけた熱量は、想像するに余りあります。
 つまりここで問題なのは、書かれた内容が自作であるか、他作であるかの問題ではなく、書に込められた熱量の問題です。「釈文提出」が義務で、「出典のコピー可」という状況は、一見書かれる素材を大切にしているようにもありますが、同時にそれは釈文さえ提出しておけば、その内容はどうでも構わないという風潮を導きかねないし、現に書いた詩文の意味さえ十分理解しないで、視覚的な作品の出来具合ばかりに重心がいっている書の現状は、多くの人が感じ、認識しているのではないでしょうか。
 書は本来、文字を書いて、何かを伝えることがそもそもの原点です。つまり、本人の意思が働いた書でないと、書としての力が宿らないはずです。そのあたりは、現在の書道の大きな課題とみてよいはずです。

 他人の詩文を書くことが当然のようになり、その詩文の意味も十分に咀嚼しないで書くことが当然の風潮の中で、茨城県在住の吉澤鐵之さんは近年、自詠の漢詩を発表する姿勢で臨んでおり、おおいに注目すべき書家のお一人とみています。
 2024年の日展で吉澤さんは、東日本大震災後、13年目の春に詠じた七言絶句を揮毫して出品していました。東日本大震災では東北三県の被害があまりにも甚大だったため、その他の地域の被害はあまり報道されませんでしたが、吉澤さんがお住まいの茨城県も甚大な被害に見舞われました。
 あれから13年が経ち、復興の大工事も一段落して、何もなかったような穏やかな海ですが、津波にさらわれ、今も海底に眠る犠牲者たちを鎮魂する一首です。

吉澤鐵之「甲辰春日東国有感」
(第11回 日展、2024年)

晩春 東国の大堤辺
遠く 白鷗の翠漣に漂ふを見る
旧鬼 眠らず 冥海の底
遺(わす)るること莫れ 災後十三年なるを

画像提供:書魁社
(自作解説:書魁社YouTube

 わたしは国立新美術館の会場で同作を前に、この漢詩を何度も読み返しながら、書としての王道をゆく現代書の秀作として拝見しました。自らも被災地に住み、近隣同郷多くの方々の悲しみと、それを乗り越えてきた強さを、書者である吉澤さんが身をもって知っているからでしょう。その叫びの思いが、ひしひしと伝わってきます。そして、大地震を自ら体験し、その体験をもとに自ら詠じた詩なので、それを揮毫する筆遣いに迷いがありません。一作全体に書者の魂がこもった力作でした。

 以上、釈文提出のシステムから見えてくる公募展の「虚」の部分について、少し私見を述べさせてもらいました。釈文が、本来 書があるべき姿を阻害しているとしたら、その注意喚起だけはしておく必要があるとの思いからです。それぞれのお立場で、さらにご検討いただけることを願いたいと思います。

公募展の主役

 いずれにしても、釈文が脱字や誤字がないかどうかを確認するためならば、あくまでもそれは公募展が書道の裾野を広げるために、まだキャリアがそれほどでもない人々に書道展を経験してもらうためにあることを意味しています。脱字や誤字をまずしないというのは、最低限の条件です。それさえ疎かにするようでは、その後の様々な修得は望めません。
 釈文の提出は、ただ字を書くだけではなく、注意力を集中させ、書道人としての基本的な能力を養うことも視野に入れた配慮というべきでしょう。あくまで公募展は、書道文化の振興と向上、そして次の時代の継承者を養成するためにあるということです。
 したがって、釈文提出を必須とする公募展はまだ途上の人々の登竜門であり、そこの部分での頂点(例えば入賞など)は、まだ深遠な書道の世界の入り口でしかないという戒めも必要でしょう。
 ところが現在は、その公募展のヒエラルキーの方が権威的な傾向を帯びているのも多くの人が知るとおりです。たとえば出品作品のサイズ一つをとってみても、公募作品より役員の作品サイズの方が大きい公募展をよく見かけます。またその展示も、役員作品はゆとりをもって展示され、公募入選入賞者の展示は窮屈に展示されています。せっかくの入賞作品なのに、入選作品と何ら変わるところはなく、金紙の表示があるのみです。そこに、頑張って入賞した作品や書家をたたえる展示設計は感じられません。
 本来なら、めでたく入賞した作品を、ゆとりをもって展示し、できることなら入賞展示の部屋は壁面の色も変え、スポットライトも効果的にあてて、他の応募者がこぞって「自分もいつかはこの部屋に展示されるようになりたい」と励みになるようでなければ、裾野は広がりません。公募展は応募者が主体です。そうでないと盛り上がりませんし、若い世代の書道離れを加速させるばかりです。
 しかし、本来なら主催側のスタッフであるべき役員がメインであるかのような公募展が多いのが現実です。この状況を見ていると、釈文のパラドックスとともに、業界全体が集団的に字を書くことよりも、ヒエラルキーの上昇に価値を置いているかのように見えなくもありません。字を書いているはずの書作品に釈文が必要というパラドクスは、現代書道が抱える様々な課題も改めて考えさせてくれる素材のようです。

財前 謙(ざいぜん・けん)
1963年、大分県生まれ。第1回「墨」評論賞大賞。白川静漢字教育賞特別賞。
『日本の金石文』(芸術新聞社)、『手書きのための漢字字典(第二版)』(明治書院)、
『字体のはなし ― 超「漢字論」』(明治書院) 等の著書がある。
NHKラジオ「私の日本語辞典」〈漢字の字体を考える〉全4回(2020年11月放送)は、
今もYouTubeで視聴できる。
団体に所属せず個人で活動を続ける。長年、早稲田大学で非常勤講師も務めている。

財前 謙(ざいぜん・けん)
1963年、大分県生まれ。第1回「墨」評論賞大賞。白川静漢字教育賞特別賞。『日本の金石文』(芸術新聞社)、『手書きのための漢字字典(第二版)』(明治書院)、『字体のはなし ― 超「漢字論」』(明治書院) 等の著書がある。NHKラジオ「私の日本語辞典」〈漢字の字体を考える〉全4回(2020年11月放送)は、今もYouTubeで視聴できる。団体に所属せず個人で活動を続ける。長年、早稲田大学で非常勤講師も務めている。

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