北川博邦(きたがわ・ひろくに)
昭和14(1939)年生まれ。國學院大學大学院博士課程日本史学専攻修了。文部省初等中等教育局教科書調査官(国語科書写・芸術科書道担当)を経て、國學院大學教授を務める。日本篆刻社を創弁し『篆刻』雑誌を編輯刊行。
編著に『清人篆隷字彙』(雄山閣出版、1978年)、『日本名跡大字典』(角川書店、1981年)、『和様字典』(二玄社、1988年)、『日本上代金石文字典』(雄山閣出版、1991年)、『章草大字典』(雄山閣出版、1994年)、『モノを言う落款』(二玄社、2008年)など。
第1回 文字とは
題して文字遊戯。先づは「文字」とはいかなる者かということになる。となると、ここはいやでも「説文解字」の出番となる。そこで以下「説文解字序」によって、その大まかなことを述べることにしよう。「倉頡の初めて書を作るや、蓋し類に依りて形に象る。故に之を文と謂ふ。其の後形聲相益す。卽ち之を字と謂ふ。文といふ者は物象の本、字といふ者は孳乳して寖(やうや)く多きなり。竹帛に著はす。之を書と謂ふ。書とは如なり」という。一口に文字というが、文と字とは少しちがう者なのである。
文とは依類象形、物象之本であるから、それぞれで完結しており、それ以下に分けることはできない。これに対し、字とは文が本になり、そこから孳乳〈うまれそだち〉して、だんだんと多くなった。つまり、文が二つまたはそれ以上合してできた者である。それ故、文は分解することはできないが、字は分解することができる。説文解字とは、そういうことなのである。そんなわけで、文は単體、字は合體であるともいう。この文字を竹や帛にかきつけた者、それが「書」である。つまり、「書」は文字をかきつけた者であるから、文字をかいていなければ、書もどき、書まがいなどということはできようが、「書」ではないのである。
さて文字ができたはよいが、それがどのように流傳していったか。「周宣王の太史籀に及び、大篆十五篇を著し、古文と或ひは異なる」という。これは當時の標準字體を示すための者だったのであろう。「孔子六經を書し、左丘明春秋傳を述ふるに至り、皆な古文を以てす」という。説文序には、古文の語がしばしば出てくるが、古い時代の文字、古文と呼ばれる書體の名稱の両様の意味で用いられており、また古代の文字と言っても、その時代や地域の差も一緒くたにしているので、ちとややこしい。春秋以後の時代になると、「其の後諸侯政に力め、王に統べられず、……分かれて七國と爲り、……言語聲を異にし、文字形を異にす。秦始皇帝、初めて天下を兼ね、丞相李斯、乃ち奏して之を同じくし、其の秦文と合はざる者を罷む」という。所謂る秦始皇帝の文字統一である。秦は周の故地に位置しており、その俗は保守的であったため、文字もよくその古風を遺している。もしこの文字統一の業がなく、六國の古文が、それぞれの地で行われていたら、今の漢字はどんな者になっていたであろうか。この統一した文字を普及させるため、李斯は倉頡篇、趙高は爰歷篇、胡毋敬は博學篇を作り、それらはみな史籀の大篆に取り、或いは頗(や)やそれを省改した。それが小篆である。その後庶事繁雑になったため、簡約で書き易い隷書が用いられるようになった。秦に於ける公式書體は小篆、実用書體は隷書であったのである。これによって古文は絶えたという。といっても古文が全く無くなってしまったわけではない。社会の表面から姿を消しても、それとなく使用され遺存した者はあり、漢代になると、それらが次々と出現してくる。新莽の時に六書有り、一に古文、これは孔子舊宅の壁中から出た禮記尚書春秋論語孝經である。二に奇字、これは古文にして異なる者であるという。孔子壁中書は、当然だが、魯を中心にした地方で用いられていた者である。だから、二の奇字というのは、魯以外の地に行われていた古文なのであろう。
當時これらの古文經以外にも、郡國の山川から鼎彝が發現したりしたが、世人はふつうに用いられている隷書とあまりにも異っているため、それらを奇を好む者であり、故(ことさ)らに正しい文字を變更し、でたらめな字を作り出し、世間の目を引こうとしているのだとそしった。それにあおられのせられた儒生は、隷書は倉頡の作ったものであると、隷書の字形によって經義を解釋するなどのことがあり、文字の形も義も大いに亂れるに至った。
漢代に文字の亂れが多く生じた原因は、篆書から隷書にうつる際の點畫の變化、いわゆる隷變、古文を隷定する際の點畫の變異、さらに經義の解釋をめぐる學派間の爭いにより變な字を作り出すなどがある。漢書藝文志小學に「別字十三篇」という者を録し、「後世經傳、既已(すで)に乖離し、博く学ぶ者も又多聞闕疑の義を思はず、而して碎義して難を逃れんことに務め、便辭巧説して、形體を破壊す」といい、顔師古の注に「苟(かりそ)めに僻碎の義を爲し、以て他人の攻難を避ける者、故らに便辭巧説を爲し、文字の形體を析破す」という。別字とは、今言う異體字である。それにしても、十三篇もあったのであるから、録せられた別字の数も相當に多かったであろう。