
増田 孝(ますだ・たかし)
1948年生まれ。東京教育大学卒業。博士(文学)。愛知文教大学教授、学長を経て、現在、愛知東邦大学客員教授。公益財団法人永青文庫評議員。テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」鑑定士。
主な著書に『光悦の手紙』(河出書房、1980年)、『茶人の書』(文献出版、1985年)、『書の真贋を推理する』(東京堂出版、2004年)、『古文書・手紙の読み方』(東京堂出版、2007年)、『書は語る 書と語る 武将・文人たちの手紙を読む』(風媒社、2010年)、『本阿弥光悦 人と芸術』(東京堂出版、2010年)、『イチからわかる 古文書の読み方・楽しみ方』(成美堂出版、2024年)、“Letters from Japan’s Sixteenth and Seventeenth Centuries”(Institute of East Asian Studies, University of California, Berkeley, 2022)など。
第35回 光悦の数奇と作陶(下)
まず、光悦が「たゑもん」に宛てた手紙を読んでみたい(図1)。
文面から、「たゑもん」は陶工と判断される。1行目に「おほえ(覚)」とあるところから、これはメモとして渡されたものとみてよい。
全文が仮名主体で書かれ、漢字にはルビが付されているところがあるのは、文字に不得手な相手への配慮だと思われる。

(個人蔵 27.5×43.7cm)
図版出典:『光悦 桃山の古典』(2013年 五島美術館)



書風を見ると、全体がどっしりとした筆線で書かれ、運筆には軽度の不自由さが存在する。これは病気の後遺症だと見られるところから、およそ慶長末から元和初年のころの手紙と見て大過ないであろう。ゆっくりとしたこのような書は、光悦のほかの手紙にはあまり見られないのではあるまいか。まるで1字ずつ噛みしめるように書かれている。できるだけ連綿は避け、明確な書体で、読みやすく書こうとしているのであろう。
内容は、次の2つが柱となっている。
その一。白い胎土の茶碗を三つ。この釉薬(うわぐすり)の見本としての茶碗をつけます。ただし、釉薬はできるだけ幽(かす)かに。一箇所に溜まることのないように。
その二。黒茶碗を二つ。香合を二つ。これらはすでに私の方で釉薬をかけました。
すべてを今回焼いていただきたい。窯の口は開けて焼いてください。
「たゑもん」に向かって、焼成の方法に関しても詳細な依頼をしているのであり、ここから、焼成についてすべてを陶工任せにしていたのではなかったこともわかる。この「おほえ」の存在は、茶友でもあった「ちやわんや(楽)吉左衛門」のほかにも、光悦が茶碗の焼成を依頼していた陶工のいたことを示す重要な史料なのである。
また、「(私は)来月二日に下ります」というところから、「たゑもん」の窯は、光悦の居住地近くではなく少し離れた場所にあったのかもしれない。
なお余談ながら、この書を眺めて、書かれた順を考えてみると、端にある「おほえ」の1行だけがやや窮屈な行取りになっているところから、この部分は、あとから書き足していることがわかる。つまり、手紙として書いたものを、あとでメモに改めて渡したということが考えられる。
さらに、文中に、「窯の口は開けて」などと書かれていることからみると、この窯は小規模な楽焼窯ではなく、本焼窯とみてよいであろう。窯の口を開けるか閉じるか。同じ釉薬を用いた場合でも、窯の口を閉じて焼けば酸素の供給が途絶えるから釉薬は還元釉となり、口を開ければ逆に酸化釉となって、結果、釉薬の発色はまったく異なってくる。この点に関しても光悦は指示しているのである。
ところで、現存する光悦茶碗の成形においては、すべて轆轤(ろくろ)を用いてはいないこと、先述のとおり。みな手拈り(土を紐状に伸ばして積み上げてゆく)である。そして「たゑもん」宛の手紙からわかるのは、光悦は胎土の成形(ものによっては釉掛けまで)はこれを行い、最終工程としての焼成は専門家に任せていたことであり、これらの記述はいずれも紹益の『にきはひ草』の内容と符合する。
現在、楽美術館(京都市上京区)にある、光悦の「赤土、白土」と書かれる何点かの注文書は、親交のあった「ちやわんや吉左衛門」に宛てて、土を入手したことを示す史料であった。それらに加えて、焼成に関しては楽家以外の陶工「たゑもん」にも頼んでいることが明らかになった点、この手紙はまことに興味深いものだと言える。
ところで、以前、私は光悦に対して焼き物の素人などと書いたけれども、あれを悪口(あっこう)とはとらないでほしい。
「乙御前(おとごぜ)」(重文)、「雪峯」(重文 荏原畠山美術館)、「時雨」(重文 名古屋市博物館)、「雨雲」(重文 三井記念美術館)、「不二山」(国宝 サンリツ服部美術館)など、今日に伝わる光悦作とされる名碗は、『にきはひ草』の記述をさながら具現したものであり、まことに興味深いのだけれども、しかしそれはそれとして、注目しなければならないのは、これらのうち、いくつもの茶碗にある罅割(ひびわれ)である。これをもって私は素人と評したのである。このことについて、さらにひとことつけ加えておきたい。
光悦茶碗の特徴ともいえるようなこれらの目立った疵(きず)は、いずれも茶碗として使用中に出来たものではなく、焼成中に窯のなかで生じたものであろうということ。かつて私は林家晴三(1928~2017)から直接に聞いている。窯割れの主因としては、成形以前の胎土処理に問題があったのだろうとも聞いた。光悦陶芸を考える上で、これはとても重要な指摘だと思われる。
つまり、成形する胎土中の空気がじゅうぶんに抜かれなかったなどが原因で、焼成中の温度上昇に伴って亀裂や破損が生じたとするならば、これは作陶における致命的な欠陥である。その意味からも、光悦の陶芸はやはり素人の域を出ていなかったと言ってよいのではないだろうか。そもそも窯割れなどの失態はプロの作家に許されるものではないのだから……。
焼成中の破損(陶芸家にとって、その確率は低いのだろうが)が万一、起こってしまったらどうするか。自作であれば、これは明らかな失敗作なのだから廃棄してしまうであろう。ところが、焼成だけを頼まれた陶工の立場としてはそうはゆくまい。
焼き上がって手元に戻されてきた茶碗を受け取った光悦は、たとえ罅(ひび)割れしてしまっていたものであっても、その姿、形が気に入ったものでさえあれば、とても捨てることができなかったのではないだろうか。たとえ窯割れを生じていても、自らの茶に用いたかったのである。所詮、光悦はプロ陶芸家ではないからこそ、それができたのである。
そうした視点から、光悦の作陶についての手紙をあらためて読み直してみたところ、書風からは元和期初頭に書かれたと推察される加藤明成(嘉明の子 1592~1661)宛の手紙(個人蔵)の中に、次のような一文を見いだすことができた。
……左馬様(左馬助=加藤嘉明)御茶碗出来申候間、江戸へ進上可申候、六ツノ内、やう/\壱ツ用ニ立申候……
この中で、光悦は「加藤嘉明殿から頼まれた茶碗が出来ましたので江戸へ届けます。六個焼いたうち、やっと一個だけ役に立ちそうです」などと、依頼者に向かって正直に告白している。裏返して考えるなら、光悦の茶碗制作というのはどうやらあまり成功率の高いものではなかったのかも知れないということがわかる。ともかくも、光悦がこのように偽りのない気持ちを吐露した手紙を書いているのは、これまで述べてきた私の推論を裏付けるものといえよう。
もう一度、『にきはひ草』の記事から。
なりを好ミ、作りて、やかせたる茶碗等、今代にかつ残りたるも、一ふりある物とぞいふめる。
くり返しを厭わずに言うなら、手紙の書を大観して言えることは、光悦が作陶を始めた時期は脳血管障害以後のことであって、若いころではなかったらしいこと。つまり、そのときにはすでに半身不自由の体となっていたと考えられる点である。ところが、いま述べたように、成形以前に欠かせないのが、土を練る基本的作業、すなわち「菊練り」である。これは両手を用いての全身運動なのであり、そうした作業は、半身に麻痺がのこる光悦にとって、もはやこなすことはできなくなっていたのではないだろうか。
ところで、私は何年か前に、ある楽焼の作家から次のようなご意見をいただいたことを思い出す。それは「脳血管障害を患った人が作陶するなどということはあり得ないのではないだろうか」というものだった。そのとき、私はどのようなお返事をしたかは思い出せない。しかし、プロの立場から見れば、成形前に必須な「土拵え」作業を抜きにしての作陶などというものはとうてい考えられないものなのであり、そのときのご意見はしごく当然なものだったのである。
そのように見てくると、そうした土を練る仕事のできなくなっていた光悦にとっての茶碗作りというものは、それ抜きの、もっぱら造形の美のみを追求するようなものだったとみられなくもない。そのような土を用いての、いわば大きな欠陥を孕んだ茶碗の焼成を、プロの陶工たちは頼まれていたということなのではないだろうか。
このことについて。今述べたことを裏側から、つまり、焼成の過程のみを依頼された陶工の立場からこれを考えてみよう。たとえ焼きあがった茶碗がどのような惨めな結果になっていようとも、依頼者にはすべてを戻さねばならぬ。割れたから、あるいは罅が入ったからといって、陶工が勝手にこれらを捨て去るわけにもゆくまい。つまり、結果の奈何(いかん)を問わず、焼き上げた作品はみな光悦のところに戻されたと考えるべきなのである。
戻ってきたそれらを見た光悦は、たとえば「雪峯」のように大きく窯割れが生じようとも、「乙御前」のように高台が茶碗の底にへたり込んでしまっていても、その姿が意に適(かな)うものでさえあれば、捨てるなどのことは、とうていあり得なかった。
いくつかの光悦茶碗のように、制作技術的には大きな欠陥があるにせよ、これらにはみな光悦によって、愛すべき茶道具として命が吹き込まれたものばかりである。言いかえると、茶陶というものはこのように金繕いが施されることによって、さらにひとつの力強い景色を獲得し、よみがえるものでもあること。光悦茶碗たちは、そのことを強く訴えているのではないか。茶道具とはなんと不思議なものなのであろう。
ところで、数寄者光悦の「茶」とはいかなるものだったか。そのことを具体的に示す手紙はあまり見あたらない。しかしたとえば、息子の光瑳に宛てた次の手紙からは、その一端を垣間見ることができるように思われる(第一法規出版『光悦』133号書状 30.0×35.7cm 大日本茶道学会蔵)。
十七日ノ朝ノ客衆ハ
宗栄老杉次郎左殿
久越老宗運老貴老
以上六人
振舞ハ其元物ノ調
次第ニ候不及好候今晩成共
早朝ニモ調次第ノ事候如
被仰ゆる/\といたし候へく候
何ニテモ 恐惶かしく
徳友斎
十六日 光悦(光悦)
光瑳老
床下
この手紙は、書風から寛永初年のものと見ることができる。当時の加賀藩主は前田利常(1594~1658)であり、文中に出る杉次郎左衛門は小松馬出に住する利常の小姓衆のひとりである(『加賀藩初期の侍帳』)。また、久越とは中村久越(1590~1677)。石清水八幡宮出身の彼は、しばらく利常に近侍して、利常の古美術品蒐集に協力していた時期があった。その後、男山に帰り、そこに歿したようである。
上の手紙は、加賀の衆たちが光悦を訪れたとき、光悦はみずからの茶事の主役を息子の光瑳にさせたときのものと思われる。5人の客衆の名を挙げ、それに光悦自身を加えた6人であること、亭主は光瑳であり、「振舞(ふるまい=ご馳走)」は、そちらの「物ノ調(ととのい)次第だから、あれこれ好むには及びません。早朝でも、ととのい次第のことです。仰るとおり、ゆっくりとお茶をすすめたいと思っています」とアドバイスを与えている。
沢山現存する、光悦の茶の湯のことを書いた手紙はいずれも、その内容が茶事の日取りであるとか、客衆の顔ぶれを記すものがもっぱらであって、茶席に用いる道具や料理の記載などはほとんど見たことがない。そこに用いる道具などよりも、親しい人々が寄り合う、その顔ぶれ、心置きなく「ゆる/\と」語り合う会の流れを作ることに茶の喜びを感じていたのであろう。