木雞室名品《王羲之逍遙》 第12回 集王聖教序碑 落ち穂拾い記①

集王聖教序碑 しゅうおうしょうぎょうじょひ
672年(唐・咸亨3年)

明拓本(趙秉沖旧蔵本)
巻末に沈曽植の跋文を付す

 書聖・王羲之の書を学ばれた方は、一度は『集王聖教序碑』を手本とされたことがあるであろう。唐の弘福寺の僧・懐仁らにより、当時伝来する王書の墨跡資料を基に集字して、咸亨3年(672)に建立された『集王聖教序碑』は、古くから王羲之の確かな真跡が伝来しない為に、唐時代における王羲之の書法を伝える最高の書跡資料である。碑文の文字を現在伝来する王羲之の『蘭亭序』等の模本の墨跡資料と比較すると、確かな特徴をそなえた類似点を見ることができる。使用されている文字の大きさも大きく異なるものもあり、まさに「集字」された趣を如実に示している。

『蘭亭序』との比較
『奉橘帖』との比較
『集王聖教序碑』より

 この原碑が西安の碑林博物館に保存されている。今日まで長きにわたり取拓され、書の範本とされてきた。江戸時代の後期には、原刻拓本が伝来し、日本でも手習いの範本とされた。当時、原刻拓本は、貴重であり、需要が多かったのであろうか、各種の翻刻拓本が制作された。日本には、多くの原刻拓本が伝えられている。清朝の初期や明拓などのやや旧い拓本も目にするが、宋拓と称せられる善本は、得難い。
 以前、都心の古書店で、戦前に輸入された、巻末の「高陽県」等の文字の残る明拓の剪装本を入手したが、宋拓本の優れた影印資料等と比較すると、碑文全体に斜めに大きく断裂し、断裂部分にあたる文字は、破損し、文字の伸びやかさがやや劣り、筆画の抑揚が、微妙に異なり、宋拓本には及ばない。

巻末の「高陽県」部分の比較

 しかし、この帖には、巻末に清末民国期の大学者・沈曽植(1850〜1922、清末民初の官僚・歴史家。字は子培、号は巽斎または乙盦、晩年は寐叟と号した)の2件の跋文が付されている。『集王聖教序碑』の新旧を独特の書法で記している。両跋とも沈曽植の『海日楼題跋』集に収録されている。特に最後の跋は、沈曽植の題跋を活字に直さず筆跡のまま収録した『寐叟題跋』の2集の上冊にみることができる。この家蔵本の跋がそのまま収録されており、大変珍しい拓と言えようか。

伊藤 滋(木雞室)

沈曽植の跋文
右は『寐叟題跋』より
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